NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
【光明主義要文 まとめ】 ◯ 仏法に門多しと雖も要中の要なるものは念仏三昧門なり。念仏三昧門にまた方面多なりと雖も、口に聖名を称え意に慈悲の聖容を想い愛慕して止まざる時は面のあたり慈悲のみすがたは想念の中におがむことを得べし。行住坐臥一切の作務に拘らず憶念常に繋って忘れざる時は必ず業事成弁すべし。 (御慈悲のたより 上巻) ◯ 唯絶待無限光寿、即ち弥陀の聖名を崇び、聖意を仰ぎそれに帰せんが為に意に弥陀の身を憶念し、口に弥陀を称え、身に弥陀の行動を実現す。一念弥陀なれば一念の仏、念々弥陀なれば念々の仏、仏を念ずる外に仏に成る道なし。三世諸仏は念弥陀三昧によって正覚を成すと南無。 (ミオヤの光 恩寵の巻・光明体系 難思光) ◯ 自性は十方を包めども中心に厳臨したまう霊的人格の威神と慈悲とを仰ぐ(も)あり。真空に偏せず妙有に執せず、中道に在って円に照らす智慧の光と慈悲の熱とありて、真善微妙の霊天地に神を栖し遊ばすは、是れ大乗仏陀釈迦の三昧、又我宗祖の入神の処なりとす。ねがわくば識神を浄域に遊ばしむることを期せよ。 (宗祖の皮髄・人生の帰趣) ◯ 念仏三昧を修して三昧相応し信念到る所に大観念の窓は開かれん。称名は此の関門を叩くの声なり。憶念は此の宝蔵を開くの宝鑰なり。若し念仏三昧の鍵を用いずば、如来の一大観念界の門は開くべからず。此の秘密の蔵を開くにあらざれば蓮華蔵界の法界に到ること能わざるべし。 (光明の生活) 仏教では私達は無明の闇に覆われていると申します。所が実はここに一切智・一切能の如来から何故無明が発生するのか、キリスト教で言えば全知全能の神が何故不完全な人間をお造りになったかと言う(これは原罪の出どころと自由意志とは何かと言う問題も孕んだ)大問題がある訳です。弁栄上人は、古来より定説がなく難問とされた此の問題についてもまず無明に(実)体がないと言う事を仰った上で、無明とは如来蔵性の属性である一切能が活動し、一切智の未だ顕現しない『状態』の事をいうと明快に説き明かしておられます。宇宙の本体でありまた個人の根底にある所の如来蔵性の属性である一切能は不識的に働く意(志)力ですが、万物に秩序が存するのを見ても分かる通り本来自ずと一切智を伴って働くのです。ただ本来同時に働く如来様の一切智と一切能が自然界に展開するにあたっては、一切能の活動が先行し一切智が伏能の状態にととまっている過程があり、この一切智の発現未だなき状態を一切智の光が未だ射していないので「無明」と名付けるとして大問題を解決なさいました。もし無明の風という如く無明に体があるとすれば、如来蔵性はそのような悪の原因を発現したと言う問題を抱え込むことになります。そのような不完全の原因となるものを如来蔵性が発現することはあり得ず、体は清浄そのものでありながら無明とはその清浄なる状態が未だ現れていない状態であるとされたのです。無明(と言う状態)は又生きんとする意志、生きる力のもとでもありますが、それが滅びなければ生死流転から解脱する事は出来ません。 仏教には昔から「遮情」と「表徳」のそれぞれを重視する二大潮流があり、聖道門で遮情に向かう者の代表が天台、表徳に向かうものの代表が真言。浄土門では遮情に向かうのは真空宗である所の真宗、表徳に向かうのは妙有宗たる浄土宗となりました。ここで、遮情に向かうものは真空に偏し、表徳に向かうものも結局は万徳を得るに到りません。例えば真言宗で一即一切の妙観察智の理法をもとにお不動様と合一しても、浄土宗で三昧により極楽の荘厳を観る事が出来ても、宇宙大霊の一切が我ものとなることはありません。これは一面(部分)と三昧合一しただけで中心を得ていないからです。理屈では一即一切・一切即一なのですから真言宗のように個なるものとでも深く三昧合一すれば宇宙大霊一切の万徳が得られそうなものですが、実際にはお不動様とどんなに深く合一しても事実それは叶いません。ここが理論と実際の違いです。しかし中心を得れば一切が得られる。弁栄上人は それを実際に実現しお示し下さいました。光明主義とは真空に偏せず妙有に偏せず中道を説く教えです。 真空に偏せず妙有に執せず、中道に在って円に照らす智慧の光と慈悲の熱とありて、真善微妙の霊天地に神(たましい)を栖みし遊ばすは、是れ大乗仏陀釈迦の三昧、又我宗祖の入神の処なりとす。 従来の仏教は宇宙大霊を一切の根底たる実体とし、真実在のものは此の実体としての法身真如だけだと思い、これが自己最深根底にある自性でもあるが故に此の自性を開発して大霊を自己の上に顕現できれば仏(三身具足の身)となると信じていました。自力門では自力で自性を開発し、他力門では報身法蔵菩薩の救済を仰いで西方浄土に救いとって頂きそこで法身大霊を悟らせて頂くと言うのです。ですのでいづれも宇宙大霊がもとより三身即一の超在一神の大みおやに在しますと言う事実を全く知らず、したがって大霊に本来帰趣の理がありその理法にのっとって本有報身の光摂を被らねばならない事が分かりませんでした。また大乗円具の頓教を標榜する禅宗・天台宗・華厳宗・真言宗に対し弁栄上人は「これらは・・・内観理想に傾きて客観を疎んずるきらいあり」と評しておられます。自力で自己の内観を深め一切を自己内観の事実として悟ると言う方に傾いて、宇宙の中心に厳臨し給う報身が一切の衆生を摂し大霊に帰趣せしめんとしている事実に対する認識が欠けているのです。大慈悲の光明を仰ぎ帰趣の理法に随順しない為、如何に高遠美妙の法門であっても「その法を修して正覚を得たものはいない」と。弁栄上人が大乗仏陀釈迦の三昧に入って初めて仏教が円具の法門(超在一神的汎神教)であるとその全貌が明らかにされた訳です。中道に立つとは平等と差別、形式と内容を双照して余す所なく認識する状態ですが、史上初めてこの三身四智の仏眼の三昧の内容(法身の粋・絶対自身にして因果のない本有無作の報身を認識する)が厳密な意味で明らかにされたのです。 教相判釈(教判)とは価値判断に基づいて仏教を整理する為に分類するもので、天台智顗のものが有名すが、弁栄上人は広い意味でこれを行い光明主義の位置を分かりやすく説明なさいました。 目的別に分類して 自然教 神を自然界に求めようとする宗教。現世利益を求める。 超自然教 神を超自然教に求める宗教。死後の幸福を願う。 円具教(円満具徳教)自然教と超自然教を統合し最も発達した宗教。現在から永遠に通ずる理想 を求める。 本尊観により分類して 一神教 創造主たる唯一神を仰ぐ 汎神教 伝えられている仏教は一切の衆生は皆悉く仏性を有しているから仏性が顕現すれば 悉く仏陀であると説くので、一切の衆生は仏陀になれると言う汎神教。 超在一神的汎神教 弁栄上人は一切の根本仏にましますと同時に一切に超絶し給う唯一の如来様 が在します事を説き明かして、この弥陀の真相から言って仏教の真相は超在 一神的汎神教であるとされました。 理性主義と感性主義 理性主義 感情に淡白であり光のみあって熱の無き太陽の如し。自己の根底にある絶対主体を発 見し本来具備する聖智の顕れを願う。天台、禅宗など。 感性主義 熱のみで光なき太陽の如し。聖霊感のみを求める。浄土門、キリスト教。 光明主義は何れにも偏する事なく理感二性を統一し、理性に置いて絶対主体と一致し感性におい て解脱霊化するを目指す。 解脱主義と救済主義 解脱主義:自力聖道門 一切の衆生は皆悉く仏性を具しているからこれを自力を以って開発 すれば仏となれると言う主義。自己の根底に神を認めて仰ぐ事をしない 為修の達成が困難。弁栄上人は、聖道門は如来様をお慕いしないから大 慈悲の心もないのが聖道門の難点であるとしておられます。 救済主義:他力浄土門 自分は現に罪悪の凡夫であり、自身の力をもってはとても仏になること は出来ないので、これを救済して下さる神(如来)の力を仰ぐと言う主 義。 光明摂化主義 両者を統合した主義。大ミオヤを信楽しつつ一心に念仏して光明獲得し、ミオヤ の光明に摂化せらるるを期する主義。眼が在るから見えると言う解脱主義汎神 教、光が在るから見えると言う救済主義一神教に対し、眼が在り光が照らして下 さるから見えると言うのが光明摂化主義:超在一神的汎神教。 経に「仏身を観る者は亦仏心を見る。仏心とは大慈悲是なり。」とある如く、「愛の権化である仏の相好を仰ぎ見る時満腔の慈悲にうたれて仏心の大慈悲なることを思い、如来を憶念せざるを得ない」と弁栄上人は述べておられます。そして此の如来の大慈悲に感応する人の心を心理上最も優美・高尚・微妙・甚深という他ない不可思議的感情であると。信仰における情の大切さを繰り返し繰り返し説かれた上人は初めは子が母を愛慕するが如くであるものが、成長して異性を要求するが如きに到ると、『霊恋』(霊的恋愛)と言う独創的な言葉を用いて宗教的心情の、ひいては信仰の深まりを表現なさいました。そして宗教の中心真髄は如来様と衆生の不可思議的神秘の融合にあるとして大正五年「宗祖の皮髄」と言う題のもと京都知恩院勢至堂における高等講習会で行われた講演でも法然上人の道詠「かりそめの 色のゆかりの恋にだに あふには身をも惜しみやはする」を引いて異性を恋愛する程に霊を愛恋することあらば必ず神秘融合・神人合一が実現すると説いておられます。 信仰が人格に反映することを強調なさった弁栄上人は、「愛は感情の信仰。愛は如来の霊応と感応融合を切望するの動機なり。如来を信楽(しんぎょう)して全く我がものと想うは感情の奥なる愛の念なり。憶念して離れ難きは愛あればなり。愛というも肉の愛にあらず。高妙なる霊的恋愛なり。・・・宗教的天才の人は霊恋の情に富めるが如し」「霊的恋愛がこまやかになるとその霊的恋愛が法身に感応して、妙色相好身の如来様がお遇い下さる」とし、『法華経』からは「一心に仏を見んと欲して恋念して止まざれば、仏前に現じて為に説法し玉う。」とあるのを引用しておられます。仏教においては「愛」と言う言葉のこれまでにない使い方で、新約聖書を持ち歩いておられたと伝わる弁栄上人が聖書から幾つかの単語を借用されたと考えられ、聖歌と共に愛の宗教と言われるキリスト教の影響が見られる点です。特に聖書にある「なんじが心を傾け、なんじが魂を尽くし、またなんじが力を尽くして、なんじの主なる神を愛すべし。」(マタイによる福音書22-37章)の一節には、宗祖が全力を注ぎて如来を愛するに酷似すると強い共感を示しておいでになります。 宗教は衆生をして人格的に霊活せしむるにあり。故に弥陀は、衆生を愛する大慈悲が相好に表れ、万徳円満なる人格と現れ、如来の人格現は其の光明に接触する念仏者を人格的に霊化する為である。弥陀の威神極まりなく厳臨し給うことは、衆生の人格を神聖ならしめんが為にて、慈悲の相好は我等が内容を愛化せん為である。(ミオヤの光摂取の巻 二巻四一0頁) 如来は絶対無限大威霊と大自在と大慈愛とより我らを愛したまう慈悲からして、いと麗しき慈悲の面を表して我を愛し給うことを示したまう。その慈悲の表現に対しては実に我等は愛慕恋念せざるを得ぬ。真実に宇宙間唯一無二の霊的人格現に対しては我らは愛慕せざるを得ぬ。宇宙全体の大霊より表現したる人格現なればその所現の身の大小に拘らず絶対の表現なり。この霊的表現の弥陀より外に自己の絶対的に帰命真愛するものはなし。(人生の帰趣etc.) *笹本戒浄師愛誦とされる弁栄上人の聖語 満腔の愛より溢れ出ずる称名に霊応美妙の聖容は呼び発(おこ)さるれ、憶念内に充実する時は称名の声禁じ難し、愛楽即ち称名と現われ称名即ち愛楽を満たさむ |
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