NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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ゴルフ三昧とか何とか三昧とか、一つのことに熱中しているときに使うこの三昧という言葉、実はサンスクリット語由来の仏教用語で、統一的に心の働く状態を言います。実は私達の認識のパターンには二種あり、分析的に働く理性(悟性)認識即ち認識する主体と認識される客体が分かれているパターンの他にもう一つ、直観的に働く主客一致の認識のパターンがあることはあまりよく知られておりません。インドでは猛暑をしのぐ為古来よりこれを得る為の三昧修行が進んでいたそうでお釈迦様がインドに出られた理由の一つとも伺っておりますが、これを「定」とも言い、この状態において『心の眼』が開ける訳です。ちょうど眼を閉じていては見えない世界が眼を開けると見えるのと同じように『心の眼』を開くとそれまで見えなかった世界が見えてくる。そこで仏教では認識機能を眼で代表させて表現し『五眼』と言って肉眼(にくげん/私達が普通に使っている認識機能)・天眼(てんげん)・慧眼(えげん)・法眼(ほうげん)・仏眼(ぶつげん)の5つ(このうち、肉眼以外は心の眼、さらに肉眼と天眼は自然界を慧眼・法眼・仏眼は神霊界を見る眼)に分類します。仏道修行は元来、三昧に入ってこの心の眼を開くことを目的としており、三昧に入ると申しましても無量無数の三昧がありますので三昧であれば何でもいいという訳ではありませんが、とにかくそこを外すと訳が分からなくなる旨承っております。
心が層になっていることは深層心理学でも言われるところですが、仏教ではこれを9つに分け上から前5識・第6意識・第7末那識・第8阿頼耶識・第9アンマラ識 とします。「大我」というのはこの第9識のことで心のズン底を流れているいつも変わらぬ有り通しの我。仏教では変わらない所を「性」と名付けますが禅でいう「見性」とはまさにこれに気づいた、すなわち大我に目覚めたことを申します。皆が普通に「我(われ)」と思っているのは実は「小我」のことで変わらぬ所がないと言えますが、それに対して私達の心の底には「大我」といって変わらない所があり、実はこの大我は天地一杯に広がっているのだけれども、どうしたことか眠っているので私達には分からない。その眠りを仏教では無明(むみょう)の眠りと申しますがこれは大我が眠っているということなのです。永遠の生命を得るというのも仏教では、実はこの無明の眠りから覚め大我に目覚めることを言います。笹本戒浄上人様はよくご法話に原始仏典『ウダーナ』を引いてここの所をお説き下さいました。言葉は尽くせませんがこれは私共が普通に承っていることでございます。
弁栄聖者がお説き下さった『光明主義』の教えに親しんでおりますと昨今の学者の方々のおっしゃることに違和感を覚えることがございます。そうこうするうち最近になって自分の中で鮮明になったことがあるのですが、それは要するにお釈迦様は苦しみの根元が輪廻の連鎖にあることを見抜かれそれから逃れ仏に到る即ち成仏の道をお説き下さったのだということです。仮に輪廻しないとするなら、耐え難い程辛いとき死んでしまえば逃れることが出来そうです。所がそうはいかない。嫌でも生まれ変わり死に変わりしてしまう。それが苦しみの根元でありその輪廻の連鎖を断つには一定の悟りを得で解脱するしかない。というのが仏教の教えなのだと。「無我をお説きになったお釈迦様が生死流転をお説きになるはずがない。我がなければ生まれ変わり死に変わりするもの(輪廻の主体)がないではないか。」とおっしゃった曹洞宗の碩学がおられ同宗の重鎮原田祖岳師と大論争(昭和3年に始まる正信論争)になったことがあるそうですが、私共は笹本戒浄上人様のご法話を通して『釈尊の無我の説法は「小我無し」ということで「大我無し」の意味ではない。大我のある以上、生死流転は当然あり得る。』と承っております。
昨日NHKの番組(追跡!AtoZで天才棋士羽生名人の脳を調べた研究が紹介されていました。何でも「大脳基底核尾状核」という所が活発に活動しているのだそうですが、そこは従来分かっていた行動の習慣化のみならず思考の習慣化にも関係しているらしいこと分かってきたというのです。そして脳トレの方法として「直感力」を養う為に鍵となるのが「毎日3時間」「集中」して繰り返すことで、これは多くのプロ棋士にみられる共通点とのこと。弁栄聖者がお説き下さった光明主義のお念仏は「三昧の念仏」といって心の眼を開いて、悟性認識のパターンとは違う直感認識のパターンを獲得することを目的の一つとしており、燃焼時間の長いお線香を使うのは在家では光明会くらいのようですが「毎日3時間はお絵像の前に座ってお念仏をするように」との笹本戒浄上人様のご指導は脳科学の最前線で紹介されたポイントとも符合しそうです。
光明主義のお念仏をする人達の集まりが有縁の各地で活動しておりますがその一つ横浜光明会(弁栄聖者のお弟子笹本戒浄上人様のご自坊であった東神奈川の慶雲寺を中心に活動)主宰の河村先生に銀座並木通りにある『空也』の【空也最中】が茶人にも人気で美味しいと教えて頂きさっそく予約の上入手し賞味したことがございました。先生は100歳を越えられ(昭和12年に亡くなった)戒浄上人様に直接教えを受けた人で現存する数少ない内のお一人。実は今日あることに気づきました。笹本戒浄上人全集の別巻(昭和62年発行)に「御別時中の奇瑞」という題で先生が実際に経験なさった出来事について書かかれた文章があります。それは昭和十年に参加なさったあるお別時でのこと。ご法話中ある方が「お上人様、お上人様、お口元より如来様が次々と現れておられますが・・・。」お上人様はしばしその方に慈眼をそそぎお話をお続けになられましたが、しばらくしてまたその方が「お上人様、お上人様、お口元より又 如来様が次々と現れておられます。もったいないことです。」と感動した声て再び叫ばれた。その光景を尊くも奇異に感じておられた先生ですが、その後お口元から六体の阿弥陀仏が現れている京都六波羅蜜寺の空也上人像を拝し深く感銘を受けらたとのことです。先生には特別の思いがおありになった訳ですね。一般にはあれは想像あるいは意匠と思われていると思いますがそうではないことが、先生のお話によって分かるのです。 




                                                         


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