NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
[34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43]
笹本戒浄上人様は弁栄聖者のご指導をお受けになるまでいわば禅流のお念仏をなさっていらっしゃいました。聖者とのご対面の折、「私は如来様の無相法身(むそうほっしん)を理想としております。」とおっしゃる戒浄上人様を前に聖者が「いいえそれはいけません。報身(ほうしん)を本尊と仰がなくてはなりません。」とおっしゃったという光明会では有名な話があり、ここは光明主義のお念仏にとって極めて重要な所でございます。それからご自坊に帰って書物(善導大師の往生礼賛)を紐解き、古来浄土教の祖師と仰がれる龍樹菩薩・善導大師また元祖大師いずれも言葉を極めて報身阿弥陀如来のお徳を讃えその慈光を仰ぎいかにも報身如来に帰命しておられることに改めて気づかれた上人は本堂仏殿にてお念仏を始めようとなさいました。所がなんとご本尊様を仰ぎ見ると「この木偶の坊!」と口をついて出てしまう。それが出なくなり心から三拝九拝お出来になるまでになんと3年はかかったと伺っております。 聖者のご指導は、善導大師のお言葉『色(しき)壊すること莫(なか)れ。何を以ての故に。色を壊せざるが故に、仏の色身を念ずるに由るが故に、是の三昧を得。』と完全に一致するものですが、このエピソードはまた信念の心に深く浸透する事と変更の難しさを物語っているとも言えそうです。
弁栄聖者は21歳で浄土宗の僧侶となられて以来その僧籍をお持ちでしたので、50歳を過ぎ『光明主義』として新たな法門を開かれた時、伝統的宗乗との関係が問題視されるところとなりました。異安心(異端)ではないかと見られた訳です。これに対し聖者は善導大師・法然上人の真精神を説き明かすとの一貫した態度で臨まれました。大正5年、浄土宗の本山京都知恩院の勢至堂における高等講習会)において「宗祖の皮髄」と題してお話があり後に一冊の本にまとめられたのがその内容です。お弟子の中でも抜きん出ておられた笹本戒浄上人様は「・・・《宗祖の皮髄》を注意して拝読するとあの中で弁栄上人は〈安心起行の形式〉と〈起行の用心〉とを判然と分けてお説きになり、従来の宗乗学者が絶えて気づかなかった点を明らかにして過去数百年間における宗乗上の一大疑雲を見事に晴らして下さった。即ち・・・徹底的に如来様の慈悲の聖容(みかお)を念(おも)いお慕いして如来様を見奉らんとの見仏想に住してお念仏する事の大切さをお教え下さった。」とその意義について述べておられます。時に殆ど孤軍奮闘の有様を気遣うあるご夫人に対し「天台宗の異安心が法然上人となり、また日蓮上人ともなり、法然上人の異安心が親鸞上人となったのです。・・・弁栄は法然上人の聖意にかなうので、ある意味での異安心でも悪いのではありません。」と聖者は崇高な態度でおしゃったと伝えられております。                                                                                    










禅と念仏は三昧という観点から申しますとある所までは共通項を見出す事が出来ます。そこの所を弁栄聖者は「禅は墨絵の如く念仏は錦絵の如し。かれはその素質を喜び、これはその美を喜ぶ。」「禅は水を澄まして釣り上げる。念仏は水を濁してすくいあげる。」「禅は見性成仏。念仏は見仏往生。達する所は同じです。」等々と表現していらっしゃいます。ただし光明主義の立場から致しますと、そのある所から先が極めて重要で、もともと禅流のお念仏をしておられた笹本戒浄上人様に次の様な句を示して見事に上人の心中にあった問題を氷解させておしまいになったというお話が遺されております。即ち『能礼所礼性空寂 感応道交難思議 故我頂礼無上尊』。これは或る中国の居士のお言葉だそうですが、座禅もここまでやらなければ駄目だと。『或る禅那(六祖慧能禅師のこと)云く、仏本来我が方寸の中に在り。何ぞ西方十万億の彼岸に求めんや。今は曰く、浄門の意は他仏を念じて自仏を作る。所念いよいよ高遠なれば、能念の心したがって高遠。一心に仏を念ずれば即ち是の心仏を作る。もし三昧を得れば是の心是れ仏。』という句も同様で共に、私共が念仏の立場から禅をどう把握したらよいか考える指針となっております。そして途中から信念を変更する困難を天才的に乗り越えた数少ない方に白隠禅師がおられるとも承っております。
初期の仏教において「念仏」はもともと「仏を念ずる」つまり「仏を憶念する」ことであったそうです。大乗仏教の時代になり念ずる「仏」が多様化しますが、浄土教典が中国へ伝えられ発展していく過程で「念仏」そのものも多様化し複雑な様相を呈します。日本へは「入唐求法巡礼行記」で知られる慈覚大師円仁が唐より持ち帰られたお念仏が、比叡山でお題目とともに行われることになり、そこから源信・法然・親鸞といった方々が出られるのですが、それに先んじて唐から入ってきた唯識の中にも念仏の項目があり一口に「念仏」といっても実は色々です。弁栄聖者は浄土門の念仏を三種に大別して下さいました。即ち分かり易く申し上げれば、聞け聞けといい、私達は弥陀の誓願によって既に救われていると聞いて了解(りょうげ)し感謝してお称えする真宗流の『感謝の念仏』・申せ申せと言い、極楽往生を願って南無阿弥陀仏とお称えする浄土宗鎮西流の『請求(しょうぐ)の念仏』・成れ成れといい念仏三昧の成就を期す光明主義の『三昧の念仏』の三種です。そして過去にも未来にも偏することなく初発心の時から成仏に到るまで信念の変更を必要としない光明主義のお念仏の極意を繰り返しお説き下さった訳ですが、聖者は「初歩の仏眼が開ければ一安心してよい。」と漏らされたという話も伝わっており、直接そのご指導を受けた方々の中に在家であっても実際に初歩の仏眼を開かれた方達がおられたというのは特筆すべき事と存じます。
布教という側面から見ますと宗教は存外、時代の影響を受けるものと思われます。キリスト教において「肉の復活」が強調されているように見えるのも当時出回った仮現論を積極的に封ぜんとする力が働いたものと考えられますし、法然上人様の時代いわゆる「但信口称」の念仏が強調されたのも「念仏三昧」が「観仏三昧」と混同されるのを避けんとする意図が強く働いたものと聞き及んでおります。弁栄聖者は伝道に明け暮れなさる中で膨大な書き物をお遺し下さり善導大師・法然上人様の真精神を現代に蘇らせて下さったのですが、その意義つまり普遍的な内容を『光明主義』として今の時代に適した新しい革袋に入れた形でお示し下さったことの意義は語り尽くせません。そしてその事を真に理解し私共に正しく分かり易くお伝え下さった笹本戒浄上人様の法話集が今のような形で私共の手許になければ聖者のご遺稿も宝の持ち腐れになりかねない所でした。ホームページでも一部ご紹介致しておりますが、聖者のご遺稿は「弁栄聖者光明体系」に戒浄上人様のご法話は「笹本戒浄上人全集(全3巻・別巻1)」(何れも光明会本部 〒659-0011芦屋市六麓荘町20-20 TEL0797-22-4901 でお取り扱い)にまとめられております。


カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R