NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
弁栄聖者は私達の心が如来様の光に満たされる様子を炭と火に喩えておいでになります。即ち私達の煩悩の炭に弥陀大悲の火が燃えつく時は心の色が一変して紅蓮華の如くになる。経に、「念仏する者は・・・最も美しき蓮華」と誉め給うのも「この光に遇う者は三垢(く)消滅し歓喜勇躍して善心生ぜん」とあるのもこのことと。煩悩の炭があるからこそ如来様のお慈悲が燃えついて如来様の恩寵を現す器となりうるのであって、口に称名(なむあみだぶつ)を唱えるのはあたかも火吹き筒で酸素を送り込むようなもの。仏念(おも)いの心を煽り立てる為であると。この喩えにはもう一つお諭しがあって、炭に火種を付けたり離したりしていてはいつまで経っても燃え付かない、じっと付けていなくては燃え付かないというのです。「不離仏知遇仏」「唯除睡時常憶念」と言われ、又「夜な夜な仏(みおや)と共に寝 朝な朝なも共に起き立ち居起き臥し添いましてしばしも離るることぞなき」と聖者のお歌にあるのもこのことで実はこの常に常にという事が信仰上非常に重要なポイントである事がうかがえます。
私達は普段何気なく『念仏』と申しますが、「念仏とは仏と離れないこと、弥陀尊を常に念頭に置いて離れぬを念仏と言う」と弁栄聖者はおっしゃっておられます。より端的には如来様の慈悲の御顔を常に憶念し、行住坐臥 如来様が胸臆(むねのうち)を往来して離れないという事。この模範を示されたのが観音様で、観世音菩薩様の御像が御頭(おつむり)に必ず阿弥陀如来様を頂いて在すのはその意味の表現であると私共は承っております。聖者は観世音菩薩様のように念頭に常に弥陀が離れずその胸の中は常に弥陀の慈悲に満たされる時は誰でも大なり小なり観音となるとして、観(無量寿)経より「如来は是れ法界身(ほっかいしん)にて一切衆生の心想の中に入り給う」との一節をお示し下さいました。また如来様は何れの所にも在さざる所なき霊体にて色心不二であり、一面より見れば大智慧の光明遍く照り渡り、また一面より見れば何とも言われぬ麗しき妙色相好身として現れ給うのを経にも「衆生信水澄む時は仏日の影映る」とあると。さらに「衆生一心に仏を念ずれば仏心が我が心に入り給う。我が心は仏心の中にあり。衆生心と仏心とが融合して三昧の妙境に入る。」と念仏三昧というものの本質について述べておられます。
「如来はいつも在ますけれど・・・衆生は知らない。それを知らせに来たのが弁栄である。」これが私共に遺された弁栄聖者の最大かつ最後のメッセージ。非常に簡単に言ってしまうと如来様モードで生きるよう繰り返し繰り返し説いておられるように見えます。しかも私共は「聖者は今まで如来様の真相を知り得ず、従って何のために生まれてきたのかも分からないままこの世界に放り出されていた私達に、如来様が如何に在すか、即ち独尊統摂帰趣に在して、一切の根本仏であると同時に一切に超絶し給う唯一の存在であらせ給う旨を根本から説き明かした上でその御旨に随順する生き方をお示しになって下さったのである」と承っており、確かに聖者には壮大な宇宙意識の理を説いた殆どロマンティックとも言える次のような意味の御遺文がございます。『地球の発展は生命の現化発展を目的とし、生命の発展は意識の現化発展(発現)を目的とし、意識の発展は心霊の現化を目的とし、心霊の発展は世界の目的。世界は心霊を実現し宇宙と致一(合一)せしめる事をその終局目的とする。』これが仏教が単なる人生論ではなく世界観と連動した人生観を提示していると言える所以です。 仏教では私達は無明の闇に覆われていると申します。所が実はここに「一切智・一切能の如来」から何故無明が発生するのか、キリスト教で言えば「全知全能の神」が何故不完全な人間をお造りになったのかという(これは原罪の出所と自由意志とは何かという問題も孕んだ)大問題がある訳です。弁栄聖者は古来より難問とされたこの問題についてもまず無明に(実)体が無いという事をおっしゃった上で、無明とは如来蔵性の属性である一切能が活動し、一切智の未だ顕現しない『状態』の事をいうと明快に説き明かしておられます。宇宙の本体でありまた個人の根底にある所の如来蔵性の属性である一切能は不識的に働く意(志)力ですが、万物に秩序が存するのをみても分かる通り本来自ずと一切智を伴って働くのです。ただ本来同時に働く如来様の一切智と一切能が自然界に展開するにあたっては、一切能の活動が先行し一切智が伏能の状態にとどまっている過程がありこの一切智の発現未だなき状態を一切智の光が未だ射していないので「無明」と名付けるとして、私共の疑問を見事に解消して下さいました。人生の意味を問おうとする時、私達が知り得るのは何故あるかではなく如何にあるかです。弁栄聖者は宇宙大霊が如何にあるのかを如実に三昧体験された上で、その中に生み出された衆生が如何にあるべきかをはっきりとお示し下さったと私共は承っております。
お釈迦様は「中道」をお説きになったとされております。爾来様々の解釈がなされておりますが、光明主義では、中道とは平等と差別、形式と内容とを双照して余すところなく認識している状態を言い、仏身論から申しますと(絶対自身にして因果のない)本有無作の報身が法身の粋・中心であるという所がその鍵となります。『自性は十方世界を包めども中心に厳臨したまう霊的人格の威神と慈愛を仰ぐもあり。真空に偏せず妙有に執せず、中道に在って 円かに照らす智慧の光と慈愛の熱とありて、真善微妙の霊天地に神(たましい)を栖し遊ばすは、是大乗仏陀釈迦の三昧、我宗祖の入神の処なりとす。』 聖者がお遺し下さった要文は以上の通りですが、これは聖者ご自身が「三身四智の仏眼」と言ってお釈迦様とほぼ同じ程の深くして深い三昧に入られた体験から、中道論としては恐らく初めてその厳密な意味を明らかにして下さったものと承っております。光明主義では超在一神的汎神であるところのこの本有無作の報身を根本仏・心本尊として仰ぎますので、それまで禅流のお念仏をしておいでになった笹本戒浄上人様への聖者のご指導のポイントもここにあった訳です。
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