NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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笹本戒浄上人様は、弁栄聖者の衆生ご済度のお力が2500年前のお釈迦様のそれと同一であったとして『パーラヤナ』という原始経典を紹介しておられます。それによると、お釈迦様は人が心の中で質問しますとちゃんとその心を知ろしめして、直ちに言葉に出してお答え下さるというので当時有名だったと言います。そこである婆羅門の師匠は長年解決出来ずに悩んでいた問題の解決を仰ごうとお釈迦様に16人の高弟を使わすことにしたのだそうです。出発に先立ち師匠は注意を与えました。先ずお釈迦様が真に仏であるのかを身に三十二相を有しておられるかで確かめる事。次に心の中で二つの質問をするように。一つは「私共の師匠は普通の人と異なった人相がありますが何処と何処でしょうか。」もう一つは「私共の師匠はヴェーダ経典の第何節と第何節に通じておりましょうか。」お釈迦様が真に仏ならば口に出してご質問しなくともこちらの心を知ろしめしてお答え下さる筈である。そうしたら初めて威儀を正して問題の解決を仰いで来るようにと。野を越え山越え訪ねた弟子達がお釈迦様の有する三十二相を確認し心の中で二つの質問をしました所、一つ一つ口に出してお答え下さったので最後に、師匠から預かって来た問題の解決を仰いだその時の御説法が『パーラヤナ』なのだそうです。ついで戒浄上人様は弁栄聖者によってこの原始経典にある記事が決して空想的伝記でないと確信できたお話をしておいでになる訳です。 

笹本戒浄上人様もそうですが、仏眼を開いていらした聖者には様々なエピソードが伝えられておりますので、お弟子の一人である田中木叉上人が『日本の光』と題してまとめて下さった聖者のご伝記から・・・取り合えず小さなエピソードを一つご紹介させて頂こうと存じます。大正8年九州巡教の折の事・・・汗が玉なす暑中満身霊応に満ちたご法話が進み本堂より下がられた聖者を団扇であおぎながら「今日は格別暑うございまして」と申し上げる従者に「暑くて結構です。これでお米もよくでき、農家も喜びます。やはり如来さまのお慈悲のあらわれですね。」と聖者。所がご法話中その従者はあまりに喉がかわいたのでちょっと庫裡(くり)に下がって湯飲みでお茶を頂き一刻も早く本堂に戻りたい一心でその湯飲みを洗わずにそのまま伏せておいたのだそうです。するとご法話を終えて本堂から下がって来られた聖者は、すぐ従者の使った湯飲みを手に取って従者の顔をみてニッコリお笑いになり他の湯飲みを使ってお茶を飲まれると、従者の使った湯飲みとご自身の使われた湯飲みを二つとも自ら洗って元のお盆に伏せてお置きになられました。この無言のお導きに従者はただただひれ伏したと『日本の光』は伝えますがなかなかチャーミングなお導きですね。
情の信仰において「融合」が心の花とすれば「安住」は結果であると弁栄聖者はおっしゃっておられます。人間の心を捨て如来様の大慈悲の御懐の中に抱擁される時は仏智不可思議の境界において阿弥陀仏「去此不遠(こしふおん・此処を去ること遠からず)」、此処が即ち浄土であると。言い換えれば肉眼つまり人間の業識で見れば娑婆と見えるものが仏眼(ぶつげん)で見れば十方界尽く浄土ならざるはない。これが「娑婆即常寂光土」の意味する所です。御法話ではここの所が分かり易く唯識に言われる『一水四見』の喩え(天人がその水を見ると瑠璃の鏡に見え、人間が見ると飲み水に見え、また魚が見ると住みかと見え、餓鬼が見ると炎と見える)を以て説明されることもございます。何れにしましても光明主義においては極楽往生或いはお浄土に生まれるというのは必ずしも肉体の変化を伴わない。ここが死後のそれを願う言ってみれば未来主義のお念仏とは一線を画す所です。

経に「仏身を観る者は亦仏心を見る。仏心とは大慈悲是なり。」とある如く、愛の権化である仏の相好を仰ぎ見る時満腔の慈愛にうたれて仏心の大慈悲なることを思い、如来を憶念せざるを得ないと弁栄聖者は述べておられます。そしてこの如来様の大慈悲に感応する人の心を心理上最も優美・高尚・微妙・甚深という他ない不可思議的感情であると。信仰における情の大切さを繰り返し繰り返しお説きになった聖者はまた初めは子が母を愛慕するが如くであるものが成長して異性を要求するが如きに到ると、『霊恋』というたいへん独創的な言葉を使って宗教的心情のひいては信仰の深まりを表現なさいました。そして宗教の中心真髄は如来様と衆生の不可思議的神秘の融合にあるとして大正5年「宗祖の皮髄」という題のもと京都知恩院勢至堂における高等講習会で行われたご講演でも法然上人様のご道詠「かりそめの 色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはする」を引いて異性を恋愛する程に霊を愛恋することあらば必ず神秘融合・神人合一が実現するとお説きになっておられます。
往生という言葉も日常使われる事がございますが、従来は命終わって他の世界に生まれることを意味し、阿弥陀如来の浄土信仰が盛んになるにつれ専ら西方極楽浄土への往生の意で用いられるようになったようです。この場合往生とは普通は空間の移動をイメージしています。しかし我が国初の梵語研究で知られる萩原雲来博士(1869~1973)によれば、往生がもともと梵語プラティヤジャーティーの訳であることから再生と訳すほうが適訳であり、原語から見ると往生は場所の変化(空間の移動)にあらずして状態の変化であると。聖者はそこの所を「往生即ち更正なり。」と表現なさいました。そしてこれを精神的更正と身体的更正にお分けになった上で、精神的更正を果たした状態を有余涅槃(うよねはん)、その更正した精神が方便土(この世)のつとめを全うし終えた所を無余涅槃(むよねはん)とお教え下さいました。この有余涅槃・無余涅槃共に光明主義では最高度の仏眼即ち三身四智の仏眼を得て涅槃に入った状態を申しますが、さらに聖者はご自身の三昧体験から『無余即無住処涅槃(むよそくむじゅうしょねはん)』の境涯の真相を「生死に住せず涅槃に任せず、永恒常住に、一方には涅槃界に安住してまた一面には生死界に分身応化して衆生済度する」と初めて正しくご教示下さったとも私共は承っております。


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