NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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大島上人は弁栄上人様の事を生粋の立派な方だと耳にしながらも浄土宗の異安心だと思って長らく寄り付かなかったそうです。本山の指令による布教伝道にあたってもその時分は普通の布教師でしたので、夜更かししては翌朝眠い目を擦りながら登壇して講演したりしておられました。ところがあるとき熊本のお寺での5日間の講演中(大正9年3月)に「講師さん、あんたのお念仏は有難いですか?」、お念仏をしっかり申しなさいと講演を締めくくると「あんたはお念仏申されてますか?」とこう言う無言の声が反響となって心に返って来ていたたまれなくなり、我々がこんなことでは浄土宗は滅亡すると心の中に非常に懺悔の念を抱きつつご自坊(伊予松山大林寺)へ帰られました。そこへ弁栄上人にお逢いになる機会が訪れます。帰依者の発案により市内のお寺で弁栄上人を招いての7日間の法要が営まれ参加の機会を得られたのです。始めは讃歌など歌ったりしてキリスト教の真似のようにも見えるし、お弟子の佐々木為興上人は代講で「この弁栄上人のお教えをよう受け取らん(受け取ることが出来ない)様では馬鹿坊主じゃ」と高笑いなさるし・・・「こんなことを言う奴が馬鹿坊主じゃなあ」と寧ろ反感を覚えたりしておられたのですが、弁栄上人様は『宗祖の皮髄』を一冊づつお渡しになり講義を始められました。そして玄瑞上人は、十分熟していないと思っていた従来の三身論が弁栄上人の三身論に至って初めて成程素晴らしいと思われたのだそうです。そして宗祖の皮髄にはないものの神話の弥陀・四十八願成就の伝承の弥陀・贖罪的の弥陀・三昧対象の弥陀それから宇宙最尊の弥陀と五通りに説かれたこれが従来我々の疑問としておった所を余さず説かれた大説法だと思われました。これが弁栄上人最晩年となる大正9年の夏のことで、玄瑞上人はそのまま弁栄上人ご一行に同行して広島へ渡られました。最後の年にご縁を得る事になった玄瑞上人は、その後ご自坊にて松山光明会を牽引し在家特に多くの青年を育成なさいました。因みに弁栄上人が筑波山でのお悟りの内容を直接漏らされたお二人のうちのおひとりでもあります。光明誌S55:大島玄瑞上人の聖者追慕録より
これは信じるほかないと言うのが、弁栄聖者がご自身の三昧体験に基づいて(即ち経典から演繹的にでなく)帰納的に説いておられると言う点です。釈尊が「三身即一本有無作の報身と円かに合一して、認識的一切智によって目覚めているときにはいつも肉眼と同時に働いている仏眼によって報身の御姿を見奉っておられた。」と言うのも善導大師・法然上人も「(晩年に)三身四智の三昧を得て三身即一本有無作の目的論的報身と合一し、これと合一する見仏を最終の真精神としておられた。」と言うのも経典や記録にのこる著述や教説のどこを探しても見いだせないからです。そしてこれが、光明主義の原点でもあります。
 弁栄聖者はお弟子の笹本戒浄上人に「大宗教家は衆生済度を第一とするので、ご説法が必ずしも真精神ではない。それ故必ず大宗教家が得ておられた深三昧の内容とその真精神を如実に三昧直観してそれがご説法を一致しているか否かを正しく認識しなければならない。」と教示なさいました。それで戒浄上人は「釈尊・善導大師・法然上人の真精神(真の境涯)を如実に三昧認識する実力のない千万人が何と言おうと、原始経典にどのように書いてあろうと、善導大師・法然上人がその著述や直説法でどの様に言っておられようと、如来様の真実を如実にお教え下さる弁栄上人のお教えが真精神に相違ありませんからそれを素直に信じて正しい念仏に共に精進したいものです。」「その実力のない千万人の言動に心迷わされて、唯一如来様の真実をお教え下さる弁栄上人の真精神を排することのない様に致したいものです。」と仰ったと伝わります。泉虎一「笹本戒浄上人のお教え」より
「年ごとに咲くや吉野の山桜木を割りて見よ花の在りかを」 
 
と言う一休禅師の有名な歌があります。一方光明主義から言いますと、本具仏性の最深の内容は畢竟 大智大慈悲・衆生済度の心霊力・妙色相好身であると言うことが弁栄聖者の『無辺光』から読み取れます。従来、報身の妙色相好身は第一義的目的を実現する為の手段とされ、菩薩の位が尽きる所まで来ると生きた如来様は無限大となって下さり ここで無限大の如来様を拝んで宇宙尽くして法身となるとされ、これが従来の成仏でありました。有効な手立てとしてご相好を選んでお念仏するので報身を念ずることで手段として相好を拝み法身と合一するこれは外的目的論と言うことになります。これに対して、光明主義では大宇宙の法身の中心としての報身如来様のお育てを仰ぎ絶対中心とたる報身如来と合一する事を目指すのでこれは内的目的論となります。光明主義は経典から演繹的にではなく、弁栄聖者ご自身の三昧体験から帰納的に説かれている所に最大の特徴がありますが、妙色相好身についてもまさにそれが言える訳です。 杉田善考上人ご法話参照
 
 
 
 







「 永保2年(1082)、永観50歳のころである。2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、「永観、おそし」と声をかけられた。永観はその尊く慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えると言われている。」(永観堂HPより)
このエピソードで有名な永観律師は三論宗の学僧ですが、著書『往生拾因(おうじょうじゅういん)』により唐の善導大師の教えを法然上人につなぐ役割を果たしています。『往生拾因』の後に出た珍海の『決定往生集』でも散乱心でなく、定心の念仏が「正中之正因」つまり正定業の称名であるとします。一心専念の専念の意味の取り方ですが、藤井正雄氏によると永観はこれを観仏三昧の意で用いた為、法然は受け入れることが出来なかったとあります。観仏三昧と念仏三昧の違いは非常に重要な問題ですが、専心でなければ往生出来ないとする限り弁栄聖者のお説き下さった所と酷似する為詳しく調べてみたいものです。念仏の長い歴史的土壌というバックボーンがある事に思いを馳せました。

 円照(1139~1177)は平治の乱で父信西入道に連座して配流の身となり21歳で出家します。当初は法華経を学びましたが、後に善導大師の勧める念仏に転じて精進し念仏現証の人として一族は仏のように崇敬していたと伝えられます。

 黒谷の地にて念仏の教えこそが凡夫を救う道であることを発見し、念仏に開顕した法然上人は、すでに独り念仏修行に徹していた若き遊蓮房に会いたいと比叡の山を下りたその足で広谷に向かいます。
 成仏が約束された往生への道が念仏一行であるならば、遊蓮房はその先達です。出会った二人は意気投合し、念仏中心の二年間をともに過ごしたと言われます。しかしながら生来病弱だった遊蓮房は明日をも知れぬ身なればと近くにあった別所に隠遁し、さらなる信仰の深みを目指しました。
 法然上人にとり遊蓮房との出会いの意味は自内証を得られたことであると言われています。かつて報恩蔵にて熟読された浄土の御教えによれば確かに私たち凡夫は救われていく。しかしそれを実際に体現された遊蓮房との出会い、そして共に念仏生活を送る中で実感されたであろうその念仏信仰の確かさこそが、法然上人の大きな力となりのちの活動を支え続けたと思われます。

「浄土の法門と遊蓮房とに会えるこそ、人界の生を受けたる思い出に侍(はべ)れ」即ち浄土の御教えと遊蓮房に出会えたことこそが、この世界で人の身を頂いた中で際立つ 

思い出であると法然上人はしばしば周囲に語られたそうです。
 年若きこの遊蓮房を法然上人は当初、師と仰いでいたと言われますが、やがて法然上人のお念仏の教えの真髄に触れた遊蓮房が法然上人を師と仰ぐようになりました。
遊蓮房は三十九歳で往生したと伝えられます。その際、命終に臨んで九遍まで念仏を称えた後、「もう一念」との法然上人の声に励まされ、高声に一念し往生を遂げたということです.



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