NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
二宮(神奈川県)の知足寺で住職をなさっておられた相馬千里という方と弁栄聖者とのお出会いも正に一期一会で印象的ですのでご紹介致します。 このお上人は長くアメリカ(ハワイ・本土)で伝道された方ですが帰朝時、東京本郷の宿で同じく投宿中の聖者のお説教があるからとお誘いを受けたもののただの「(米粒に細字を書く)米粒行者」としか思っていなかった上人はそれを断り隣室の床の中。静かな称名の声と衣ずれの音とともに入室なさった聖者のご説法(如来様のお光明が太陽の光の様に衆生の心を霊化して下さると言うような内容)を聞くともなく聞くうちに眠ってしまった上人がふと目を覚ますと午前3時だったそうです。漏れ聞こえる南無阿弥陀仏のお声と電灯の光に誘われ唐紙の間から隣室を覗うと、軒端に残る前日の雪も凍ったかと思える深夜の寒さもお厭いなく真深に袈裟を被り机に向かって御筆を走らせ給う聖者のお姿がありました。慚愧の涙に床をぬらしつつ深く心をうたれた相馬上人が、翌朝起き出た時聖者は雲の如くお発ちになった後。尊き御姿を見失った上人は遂に温顔に接する機会を永しなえに失ったと述懐しておられます。けれどその一夜の無言の御教えに強烈なインスピレーションを得られた上人の心に感化の強い力は生き続けその後光明主義の為にたいそうご尽力下さることになりました。
弁栄聖者がお遺し下さった三昧仏様はご相好が平面的に描かれている。ここが修行の効果上重要なポイントである事は重ねて申し上げておかねばなりません。すなわち平面的に描かれた三昧仏様をお浄土の活きた如来様と拝する時は平面的でなく立体的に拝める。活きた如来様の立体的な慈悲の尊容をはっきり感じると言うのです。そして三昧修行の観点から致しますと立体的なお木像etc.を前にするそれに比べて平面的に描かれた三昧仏様のご相好をお浄土の絶対の報身の現象態として立体的に拝んでするそれの方が効果が高く深いものがある。でありますので、お弟子の笹本戒浄上人様は聖者の三昧仏様を(三昧の)達人中の達人ならではのお導きと評されました。宝の持ち腐れとすることがないよう努めたいものでございます。
有名な大原問答に「(至極大乗の意は)体の外に名なく、名の外に体なし、万善の妙体は六字の名号に即し恒沙の功徳は口称の一行におさまる。弥陀の万徳ことごとく名号に摂在する故に、名号を称すれば如来の徳が自然に彰わる」。とありこれを『名体不離』と申します。これがうっかりしますと、名号自体に呪文や真言陀羅尼のような力があると勘違いしてしまう所で少しく注意が必要です。かつてお弟子の方(柴武三氏)が「オウムや九官鳥が名号を覚えていつも南無阿弥陀仏と称えるようになったら、極楽往生出来るでしょうか」と弁栄聖者におたずねしたところ、「オウムや九官鳥には如来様を念ずる念がないので出来ない」と仰せになったそうです。名号はそれ自体が何らかの尊い力を持っている訳ではなく、名号をお称えすることによって如来様をお慕いしお念じする心が起こるので尊いと言う点をしかと心得ておりませんと空しい空(から)念仏になりかねません。「信じれば救われる」と説かれた教えがございますが、それによって魂が救われるという程の大事ならば、その「信じる」と言う個人の心の内面に関わる内容を精査すべきでありましょう。念仏もまた念仏する者の心の有り様について粗略な態度であってよいはずもなかろうかと存じます。又、名体不離と言うのはあくまで三昧定中におけるものである事も付け加えておかねばなりません。
弁栄聖者の御教えを従来の伝統的宗乗・教説と比べてみますと幾つかの特徴が見られます。『三身四智』と言われる最高位の仏眼を開いておられた点は善導大師・法然上人様・弁栄聖者に共通しておりますが、その境涯の風光とそこへ至る道筋及びその心得について聖者ほど具体的に説き書き遺して下さった方はおられません。法然上人様は最晩年になってその境涯に到達されたので遺された文献からそれを探るのが困難であり(故に聖者は法然上人様のご道詠を私達にお示しになられました。)、善導大師のそれは私共の手が届き難いのです。最高度の仏眼の境涯に達して初めて見える世界がある訳ですが、従来そこがはっきりと説かれた文献がありません。眼を閉じていては見えない世界が眼を開くと如実に見える。ただそれだけのことでありますのに、眼を閉ざしておるものにはその事実が分かりません。聖者がお出になるまでは、真相を如実に観る眼(認識機能)の全容が知られているとは言い難かったのです。そこまで説かれているというのが光明主義の最大の特徴と言えると存じます。それを踏まえて、聖者のご教示を眺めますと、「慈悲の尊容」の重視という特徴が見えて参ります。「如来は神聖と慈悲の尊容を真向きにして一切の時、一切の処にまします。今もこの身を照鑑したまうなりと憶(おも)いあげぐれば、自ずから恭敬の念生じ候。私どものような気まま者には、ただ口に称名するばかりであると、尊敬の念も生じ難く候えども、絶対人格のい尊き如来現に尊く厳臨したまう神聖なる尊容を拝む思いの中には、自ずから頭をたれて崇敬の念が起こり候。されば人にすすむるにも、やはり人格的の如来様に離れぬようにすると、その方が宗教心確かになると存じ候。」(お慈悲のたより上)
「念仏三昧」に入ると一体どういう事になるのか弁栄聖者は一切の行が仏行になる様を具体的に書き送っておられます。『三昧とは仏我無二・生仏一致の心理なり。光明讃称の時は讃声に神(こころ)が入って声と心共に仏となるなり。無量光の声に心も仏心と相応することなり。讃礼の時は即心仏と一致して、無二となることなり。日光を見れば日と心と冥合す。然らば日光もまたミダの光明と観じらる。風の音と融合すれば、松風即浄土宝樹の音と調べを和するなり。一切の行として仏行ならざるはなし。行住座臥、着衣喫飯、放尿放屎として菩薩行ならざるはなし。一切所作即ち念仏三昧となるなり。先ず以て三昧を学び給え。』(お慈悲のたより上巻) 私共が手にしておりますのはもっぱら高弟田中木叉上人の編集による書簡集「お慈悲のたより 上・中・下巻」ですが、これには宛先や日付が省かれておりテキスト批判に耐え得ない面があります。そしてこれは聖者のご遺稿全般について言えることなのですが、玉石混交とも言えるご遺稿群、とりわけ書簡につきましては対機説法そのものになっておりますことに留意の上扱われるべきと存じます。 |
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