NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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 岡 潔博士(1901~1978)は文化勲章etc.の受賞歴のある世界的に著名な数学者でいらっしゃいますが、ユニークなエッセイを多く書かれその中で「弁栄聖者と光明主義」のことをご紹介下さいました。親族のお勧めで光明会の念仏会へ参加なさったのを機に念仏修行に励む一方、聖者のご遺稿を精読されたものとみえ光明主義への深い理解を示しておられます。「わが座右の書」という題の文章の中で「私たちは、根底から知っていることは何一つない。人は大抵そのことを知らないだけである。ところが、その一切のものに説明を与える本が一冊だけある。仏教の本で 山崎弁栄上人著『無辺光』 ここに説かれていることを仮定すると、理性界の一切、科学、芸術、宗教等が悉く説明できて、少しも矛盾しないと思われる。」旨 述べられ他の数冊の書と共に これらの書の存在を文化の奇跡と評されました。 博士の著作をご縁に光明会でお念仏を始められた方々の多いのは誠に有り難い事と存じます。オルガンを弾きながら美しいお声で聖歌を唱われるお姿が印象的なお嬢様も会の為にたいそうご尽力下さいましたが、先頃逝去なさったとの事。ご冥福をお祈り申し上げます。
 
弁栄聖者は米粒に細字で南無阿弥陀佛と書いて分かち与えておいでになりましたので、むしろそれで広く知られ米粒行者と呼ぶ人もあったようです。大正8年(亡くなられる前年)の夏、念仏修行の会(お別時)の為に信州・諏訪湖を望む唐沢山に上られましたが、そこで高文(高等文官試験)の受験勉強をしていた学生達の中に聖者のご指導を受ける事になった方があります。そのお一人 高橋猪久氏がお供しておられた時のこと、聖者が名号をお書きになった米粒を紙で包むお手伝いをなさったそうです。とてもついていけない程のスピードで書き続けておられた聖者が突然ピタリとお止めになり「これでよい。」との仰せ。あまり突然だったので少々驚いた氏でしたが後でその日の参詣者にその米粒を配った所、なんと1粒の過不足もなかったので2度驚いたとのことです。氏は又、貧しい学生であった当時聖者の手にしておいでになったお札(紙幣)を見て一瞬「欲しいなぁ」と思った刹那、「高橋さん心に草が生えましたね。」との仰せに雷に打たれたと同様の衝撃を受けたエピソードetc.も遺しておられます。
反駁文の中で原田祖岳老師は惣滑谷快天博士が「仏法の何たるか」をご存じないままそのお立場上強大な影響力を行使し続けられる事に危機感を持つ旨述べておいでになります。さしあたり「回向文」を迷信であるからとして学校の朝課etcで用いない(事にした)・・・等とても看過出来るものでないと。実はこの「回向」の問題は頭で考えて分かる類のものではなく、証明して見せる訳にもいかず、非常に厄介なのですが、少なくとも「回向の否定」が老師には仏法を修する者の共通認識いわば常識の否定と映ったに違いありません。戒浄上人様も「それがOpinionであってはいけません。」とクギを刺しておいでになります。併せて上人様は滑谷博士が「無我をお説きになったお釈迦様が輪廻をお説きになるハズがない。何故なら輪廻する主体が無いではないか。」と主張されたのに対して、原始教典『イティヴッタカ(如是語)』より「不生、不成、無作、無為 が無ければ生、成、作、有為の拠り所がない。」という一節をお引きになり、お釈迦様は「小我なし」とお説きになったのであって「大我なし」とお説きになったのではないとの重要な指摘をしておいでになります。
「正信論争」というのは正信問答・正信問題とも言われ昭和3年に始まり数年にわたって尚戦後にまで尾を引いた曹洞宗内の大論争でありますが、その中身の重大性・決着の曖昧さが後世に及ぼした深刻な影響について今や語られることもないと言うのは不思議に思えます。事の起こりは当時駒沢大学学長の任にあられた惣滑谷(ぬかりや)快天博士の『正信』と題された巻頭文が「星華」(宗内の機関誌)誌上に掲載されたのをきっかけとして曹洞宗師家原田祖岳老師が『須く蛆虫を駆除すべし』との一文をもって「公正」誌上で激しく博士に反駁された一件です。かねてより博士の所説・所論に対して深い憂慮の念を抱いておられた老師が堪りかねて・・・という印象ですが、これが沸騰し何と周囲を巻き込んだ一大法戦に発展つまりは大喧嘩になってしまいました。これ程の重大事件であるにもかかわらず宗門の人々の記憶にしかと刻まれた様子もなく、時を隔てた今当時の関係文献が散逸しかねない状況の下で殆ど一個人の発願・ご尽力により包括的史料の集成刊行がなされました。私共はこの千ページを越える労作にも転載収録されております笹本戒浄上人様のご法話の内容からこの論争の本質を知ることが出来る訳ですが、編者が地道な資料収集の過程で新らたな資料を発見しこの宗門教義の根幹にかかわる程の重要なテーマに貴重な問題提起をしておられる事をご紹介せずにはおられません。文献:曹洞宗正信論争〔全〕竹林史博 編 平成16年初版刊行 発行所 曹洞宗龍昌寺(山口県)
先般 河村昌一とおっしゃる光明会の長老が104歳で往生されました。光明修養会という組織の関東支部長を務められたと同時に長らく横浜光明会(慶運寺における念仏会)を牽引して下さった方です。弁栄聖者のご指導を受けたりお目にかかったという方は流石に皆無と思われますが、お弟子の笹本戒浄上人や田中木叉上人のご指導を受けたという方々も少なくなりつつありますので直接エピソードなどをうかがう事が叶わなくなった寂しさを禁じ得ません。この長老は若き頃、横浜転勤を機に戒浄上人のご自坊慶運寺(東神奈川)の近くに住まいを定めてそちらへ通い毎朝 戒浄上人様の後ろでお念仏をしてから出勤するのを常としておられたそうです。毎朝4時には参上すると上人は入り口を開けておいて下さりすでにお念仏をしておられたそうで、なんと7時までの3時間お念仏出来て有り難かったとよくそのお話をして下さいました。憶念絶やさず毎日3時間(お絵像の前で)お念仏申すと言う戒浄上人様のご指導を体現しておられた訳です。もう一つ忘れられないのが当ブログ『空也最中』でご紹介したエピソード。京都六波羅蜜寺にある空也上人像はお口元の先に6連の小さな阿弥陀(如来)様がましますことでよく知られますが、ご法話中の戒浄上人様の「お口元から如来様が・・・」と言う現場に居合わせたと言う印象的かつ貴重なお話が遺されております。法名:摂光院念誉三昧得道居士 光明会への長年のご尽力に感謝申し上げるとともに心よりご冥福をお祈り致します。


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