NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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弁栄聖者がお遺し下さった聖歌(「念仏七覚支」その1『擇法覚支』)の一節に 《弥陀(みおや)の身色紫金(しんじきしこん)にて 円光徹照したまえる 端正無比(たんじょうむび)の相好(みすがた)を聖名(みな)を通して念(おも)ほえよ》 とございます。光明会の日々の勤行式を収めた【如来光明礼拝儀】の中にありますのでお念仏会の終わりによく唱わせて頂くのですが、より分かりやすく申しますと《聖名を通して 相好を念(おも)ほえよ》となります。「如来様の御姿、殊に慈悲の聖容を憶い、お慕い申せ」という聖者の御教えは、原始仏典(増一阿含経)に「お念仏とは仏の形を憶い、徳を憶うことである。」とあるのにもぴったり符合すると言います。又観音経には「常願常瞻仰(せんごう)」とあり、慈悲の眼を子に注ぎ給う大みおやを子である私どもが常に慕わしいという心を以てふりさけ仰ぐ、つまり瞻仰し奉らんことを願いつつお念仏する訳です。ところで、本尊はお祀りしつつお念仏する時はお名号自体が功徳を持っているとして心をお名号に注ぐと致しますとこれは法本尊(名号本尊)となり、従来は仏本尊とこの法本尊の混交状態になっていたと考えられます。これに対して、報身の如来様を本尊とし、(名体不離の)お名号を称えること即ち称名を『通して』生きた如来様に心を注ぐ。これが純粋な仏本尊の念仏修行としての光明主義のお念仏の仕方である点はしっかり押さえておきたいポイントと存じます。
仏道修行においては昔から呼吸を大事にしており、座禅の数息(すそく)観(出入りの息の数を数えて心を統一する修行法)がよく知られております。自律神経:交感神経と副交感神経のバランスの重要性を取り上げて近頃話題になっているご本によれば、数値で計れるようになってこの分野の研究が一段と進んだようですが、深く整った呼吸が全身の血の巡りをよくしあらゆる不調を改善し得るのだそうです。念仏をすると「身意柔軟に歓喜踊躍(ゆやく)して善心生じ」心身の健康にもよいとされてきた事がある意味で裏付けられた思いでした。姿勢も存外大切と言われますが、よい姿勢によって気道も保たれるそうですし、何より称名をしますと息は自ずと〈吐いて吐いて吐いて・・・吸う〉事になり深い呼吸が得られます。また、自立神経のバランスを保って心を整える為にメトロノームを使うとよいとも書いてありましたが、お念仏に(禅宗からと伺いました)木魚を取り込んだアイディアも素晴らしいですね。
横浜・慶運寺での月例念仏会へお見えになる方から最近一冊のご本を頂きました。岐阜・法城寺ご住職のご法話の筆録で題は「今、生かされて ありがとう」副題が 〈弁栄上人と井村和清医師〉となっており、この井村医師と言うのはベストセラーになった『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社1980年)の著者。病を得て31歳という若さで逝かれた青年医師がお嬢様達に遺されたこの作品は映画化されテレビドラマにもなったのでご存じの方も少なからずおられるのでは存じますが、その中で生涯に感銘を受けた本として5冊挙げられたうちの一冊が弁栄聖者の「無辺光』だと言うことを、私は今回頂いたご本で初めて知りました。亡くなる半年くらい前に出会われたのですが「宇宙の真理について静かに語りかけてくれる本」であるとして棺に入れて欲しいと望まれ、望みどおり「無辺光」を胸に旅立たれたそうです。「無辺光」は、宇宙の真相(真理)がそれを如実に観る眼(三身四智の仏眼)を持った聖者によって説き明かされている希有のご遺稿集の一つですが、この青年医師のエピソードにもあらためて深く静かな感動を覚えました。
三昧に無数の三昧があり、千里眼や催眠術にかかった状態も三昧の一種である事はすでにお話致しました。私共は成仏に必要な三昧を修するのであって、三昧であれば何でもよいと言うのではない事は申すまでもありません。所で無着(インド名アサンガ)という方のご本『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』に、 成就すると成仏出来るとされている行を成就しても実際には成仏出来ない。成仏と言うのは一切の行を成就しないとならないからと書いてあるのだそうです。そうすると、一つの行を成就する度に信念を変更して別の行を修する事を限りなく繰り返さなくてはいけない事になり事実上成仏は不可能のように思えます。そこの所を弁栄聖者がはっきりと成仏に王道あり。念弥陀三昧(念仏三昧)が王三昧すなわち成仏の王道であるとお示し下さったと言うのが私共の承っている所です。この弥陀とは西方浄土に在す阿弥陀如来様ではなく三身即一に在していと尊き唯一の(超在一神の)すなわち宇宙の中心に在す報身の如来である。この一切の根本仏に在す報身の阿弥陀如来様と合一する念弥陀三昧の一行を成就すれば一切行が成就すなわち成仏できる旨ご自身の三昧体験に基づいて明らかにして下さったのだと。これが光明主義のお念仏は最後まで信念の変更を必要としないと言われる意味でもあります。「・・・唯絶対無量光寿即ち弥陀の聖名(みな)を崇め聖意(みむね)を仰ぎ帰し奉りて、意(こころ)に至尊をのみ憶念し、口に聖名を称え、身に聖意の実現に行動すべし。一念の弥陀なれば一念の仏。念々弥陀なれば念々の仏。仏を念ずる外に仏に成る道なし。三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無。」(弁栄聖者ご遺稿より抜粋) 
従来の教えとの違いをはっきりさせることで光明主義の特徴が見えてくる面がございます。従来は、その昔法蔵菩薩が衆生を済度したいと五劫に思惟をこらし四十八願をたてその願を実現するため修行して阿弥陀仏となり給うたと無量寿経にあるのを典拠に、阿弥陀仏は「酬因感果(修行の因に報いて得られた果報)の御身」とされて来ました。従って「本願」も阿弥陀如来の前身たる法蔵菩薩が菩薩の位でたてられた本(もと)の願と言う意味でした。光明主義では(あまり本願という事を申しませんが)本願の本は根本という意味で如来様の根本の願いすなわち宇宙大霊に本然としてあり常劫に働いている衆生摂取の大勢力のことであるとします。そして何より阿弥陀如来は従来説かれてきたような十劫の昔法蔵菩薩が万行成就してなり給うた「酬因感果十劫正覚の御身」ではなく法性本仏本然常住の無量寿仏に在すと説かれます。法蔵菩薩のエピソードを弁栄聖者は善巧方便としての神話とされましたが、実はこのエピソードが他作自受の構造になっており自作自受の真相とあわないことからも方便であることがうかがえる訳です。


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