NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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浄土宗三大法難の一つとされるこの法難は、興福寺が訴状を出してから法然上人が讃岐の国に流されるまでをさして言います。光明主義では、釈尊・善導大師・法然上人の真精神つまり真のご境涯を説き明かし現代に生きる教えを説きますが、その時問題となるのが、浄土宗の伝統宗乗との関係です。
 弁栄聖者は一切経を踏まえつつも経典に依ってではなく、ご自身の深い三昧体験に基づいて光明主義を説かれました。法然上人様が三身四智の仏眼(弥陀の啓示の最高位即ち開・示・悟・入 四位の内の入の位の仏眼)の境涯に入られたのがごく晩年であった為、文献上そのことが伝わっていないと言うのが弁栄聖者が三昧直観された重要な点であるとします。ここで、お弟子達の中で最もお悟りが深く前後8年に渡って教えを受けた一番弟子である聖光上人が何故その事を伝えていらっしゃらないのかと言う疑問が生じます。聖人はみだりにそのご内証を周囲にお漏らしにならないにしても、聖光上人が説き遺されたのは仏眼の悟の位の境涯に立ったものに限られ、聖光上人に伝わったのはこの境涯までであると思われます。そこで、建永の法難が起こった時期に注目する事によってその理由を推測することが出来ます。つまり、法難が弟子等に及ぶのを避ける為、弟子達はそれぞれの故郷に帰される事になり、この時聖光上人も不本意ながら法然上人のもとを去って行かれました。法然上人が入の位の仏眼の境涯に到達されたのはその後のことであったので、聖光上人にはその最高の仏眼のご境涯が伝わっていないとするのが、笹本戒浄上人様を通して伝わっている光明主義の立場です。2024.3.6

盲亀の浮木(もうきのふぼく)とは大海中に住み百年に一度水面に出てくる目の見えない亀が
ようやく浮木に遇 (あ) いその穴に入るという「涅槃経」などにある話からめったに会えな
いこと、仏法に出会うことが困難であることの喩えとされます。
 弁栄聖者は「人生再び受け難し、仏法遇い難し、殊に如来光明の妙法に遇うこと盲亀
の浮木浮木よりも難し」と仰ったそうです。これは優れて尊い弁栄聖者の光明主義の教えに遇い得た私たちが共有し、折に触れ繰り返し噛み締める想いなのです。弁栄聖者が最晩年即ちご遷化の年大正9年に初めて四国へ渡られた折に伊予松山大林寺の住職大島玄瑞上人が帰依することとなるのですが、大島上人も光明主義に遇い得たことをまさに亀の浮木に遇い得たるが如しとされました。2024.2.12

昭和30年4月光明会聖堂発行の『成仏の直線道』と言う小冊子よりエピソードを一つご紹介致します。それは或るとき杉田善孝師が笹本上人様に質疑しておられる時の事であったそうです。 
 
道元禅師は夜も寝ないで坐禅をなされ、もう足も湾曲してしまう程に修行に修行を励まれたので師の如浄禅師は「汝の様子を見ると真に古仏の姿がある。遠からず古仏の妙所に達するであろう。坐禅している中には妙なる香をかぐ事があるであろう、結構なものに触れる事があるであろう。それは吉祥だから励んで坐禅せよ」と言われた。禅の道もこの様に慧眼了々と開く当面の目標を達成するが出来ると、今度は法眼開く道を教えて向上の一路を与える。しかしここ迄進み得る人が果たして何人あるだろうか又斯かる如浄禅師の如き禅の達人に遇う事がうまく出来るだろうか。しかも如浄禅師の法眼はそのお言葉にもある様に「未だ頗る幼少であられた」のだと言う所まで話が進んだ時、笹本上人様はハラハラと涙をこぼされ、「有難い事に有難い事に」と言葉を詰まらせられたと云う。
 笹本上人様は、過去の信仰の歴程に於いて、弁栄聖者にお会いする迄のご自分のご苦労の惨憺たるものであった事を思い、ついに究竟の達人弁栄聖者に値遇され、いま現に尊いお悟りの境界に達し得たる有り難さを顧みて、弁栄聖者の御教えが霊応身を自らの心殿にお迎え申すと言う成仏への最短の道であり直線道であり易行道である事の尊さ有り難さ、この様な尊い御教えを賜った聖者の広大なる慈恩に対して感涙にむせばれたのであろうと思う。
ー能見寿作「人中の獅子・戒浄上人」よりー 能見氏は戒浄上人の直弟子杉田師から聞かれたことを上記のように伝えておられます。


悟の位の仏眼の状態でこの世を去ると肉体のない有余涅槃が実現し、再び必ず人間として自然界に修行に出されると言います。これは残っている肉の心は自然界(娑婆)においてのみ消滅させることが出来るからです。それに対し、三身四智・入の位の仏眼を得てこの世を去ると肉体と肉の心の両方から脱却して真実の根本仏と実在的に合一します。この境界は一面から言うと無余涅槃、他面から言うと(無量無数に身を分けて衆生済度すると言う意味を以て)無住処涅槃です。それでこれを無余即無住処涅槃と言います。    
 従来の仏教では、精神的に構成しても肉体を持ってこの世にある状態が有余涅槃、寿終の後 浄土に往生した状態が無余涅槃とされていました。しかし弁栄聖者は、肉体がなくても肉の心の残っている間は暫定的往生であるので有余涅槃であるとなさいました。そして三身四智の仏眼を得て初めて無余即無住処涅槃となると言うのが大ミオヤの法則であると説き明かしておられます。
                                                                                                       『光明誌 S63.10/H2.10』参照
 
伊予松山大林寺の大島玄瑞上人は弁栄聖者ご遷化の年大正9年に言わばギリギリのタイミングでご縁を得ることがお出来になり、光明主義の法の灯火を継がれました。聖者が大円鏡智を開いておられた事を示すエピソードを伝えておられます。それは玄瑞上人が本山の指示により布教師として信州で伝道されていた時のお話。京都知恩院におられる弁栄聖者に何としてもお会いしたいと思われた上人は何と一回の法話を30分づつ縮めることにして予定を早めに切り上げ急ぎ京都へ向かわれたのだそうです。本山に報告もせず聖者のもとへ直行なさった玄瑞上人に、いきなり「大島さん 信濃の布教無事終わりましたな!」と仰られたので非常に驚愕したと。大円鏡智の見極めは難しいこともありますが、聖者の一番弟子とされる笹本戒浄上人がご法話の中で大円鏡智の働く例として度々これを取り上げておられます。
 
 


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