NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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幼児が母親の言う事を素直に信じてその通りに行動するのと同じ様に弁栄聖者の御教えを素直に信じ、機会あるごとに自分の心に深く刻み付ける様に努め、実行する。すると法身の中心である報身が私どもの信念に応じた相対的の御姿でありながら常に常住不変で一切の規定を離れ一切の差別を離れた常に同一の妙色相好身を私どもの心の中に現じて、私どもをお育て下さる。それで凡夫が信念の変更を要しないで、この世で三身四智の仏眼を実現する事が出来る。これが弁栄聖者が『見仏は本宗の宗とする処、(宗は)結帰する処の見仏にある』と言っておられる光明主義の生命とする見仏である。もし三身即一の報身がただの差別の妙色相好身に在しますなら、報身の慈悲の聖容をお念じ申す一点張りの見仏で、凡夫が信念の変更を要せず三身四智の仏眼を実現する事は不可能。「法身の中心である報身の御姿は、本より絶対真実円満で、真理そのもの理法そのものの妙色相好身である。私どもの心に想い上げられる大ミオヤの御姿は、私どもの信念に相応した差別の御姿でありながら実に一切の規定を超絶し一切の差別を離れた絶対不変の妙色相好身である。この慈悲の聖容をいつもはっきりお念じ申しておるように全力を注ぐ【狭義の見仏】が一番良い念仏三昧の道である」と聖者はお教え下さいました。参照:光明主義文献刊行会「光明主義玄談」 巻三
「一切が知り尽くされるまでは何一つとして完全に知ることは出来ない。私ども人間が一切を完全に認識することは現実的には不可能であるから、絶対的真理は現実には到底捉える事が出来ない。我々の求め得るのは各歴史的発達段階において、その時その時に真理であると認められるものを認識する事、すなわち近似的相対的真理の認識である。このようにして更に広く深く真理を発見して行くところに文化の向上、科学の発展がある。」これが普通一般に言われていることであります。焼けば灰になるこの肉体を自分の体の全体だと思い、この大脳がなくなれば活動できない心を自分の心の一切だと誤解して真理を認識しようと致しますと、只今申し上げた通りになるのは当然であります。「私どもには本来宇宙大の身と心がある。それが無明の心の為に認識せられないで、この物質的拘束を受ける身と心だけを自分の身心であるかのごとく誤解しておる。」この事実に明了に気付く事が実に大切であります。この事実に早く気付いて、本来大宇宙を身とし心としておる私どもの真実の姿を正しく体験すべく精進努力致しませんと真理の認識も、数学の本質真相も正しく直観できるようになれません。相対的差別の現象の一つ一つに絶対の真理を直観出来るようになりました処を弁栄聖者は「無生法忍の境涯だ」とされました。この無生法忍を得ますと無定義要素の実質内容も正しく直観出来、数学の理論体系も価値判断もすらっと出来ます。修行の途中で何ら信念の変更を要せず無生法忍を得る修行方法を(人類史上)初めて明了に私どもにご教示下さった弁栄聖者は本物の数学を私どものものとする道をもお教え下さったと申す事が出来ます。笹本戒浄上人全集(下)より
笹本戒浄上人様は弁栄聖者に初めてお目にかかられた時、「法身でなく報身をお念じ申せ」と教えられたと伝わりますが、その時は従来の報身仏の事であると思っておいでになりました。しかし間もなく法身の中心であると聖者が見抜かれた所の「超在一神的汎神教の報身」をお慕いしお念じするのが釈尊・(最晩年の)善導大師と法然上人そして弁栄聖者の真精神である事をご教示頂だかれた事を明かしておいでになります。法身の中心である報身と合一してその報身仏の四大智慧をご自分のものとしておられた聖者は、その大円鏡智でそれぞれのお方が如来様のお光明によって成仏するまでの過程を直観なさる事がお出来になりました。そして妙観察智でその方に一番良い修行の方法を直感し対機説法をなさいました。「自分が応病施薬の方便の対機説法をしているのは、最初から釈尊の真精神である見仏に心を注ぐ事の出来ない仏道修行者を早く一番良い見仏に導く為である。」と。聖者の対機説法の目的は全ての修行者を皆釈尊の真精神の見仏修行に導く為であって、各自が思い思いに修行すれば良いという訳ではありません。性質、境遇がどのようでありましても、如来様を一心にお慕いし命懸けで励んで居れば、如来様はきっと道を開いて下さるとの事であります。 戒浄上人全集参照の事
従来の(伝統的)浄土教で言う「報身」と、弁栄聖者が「報身は法身の中心・粋(すい)である」とお示しなさった「報身」では根本的な相違があり、これは非常に重要なポイントと考えられます。従来の浄土教が(自然界と心霊界の)一切の本体である「法身」を絶対者・根本仏と仰ぎ、人格的お姿まします「報身」を体大法身に規定される第2位の仏身すなわち体大法身より自発する心霊的現象態とするのに対して、聖者は「本体法身の中心である絶対の報身」が一切の根本仏であるというのが真相であることをご自身の三昧体験に基づいて示されました。言い換えれば「報身」は法界の中心として一切の統一者・一切の根本仏なのであって、「法身」(の全体)は法身の中心である「報身」の統摂下にあるという事。これは仏身論におけるコペルニクス的転回であると後に笹本戒浄上人が評価なさいました。
笹本戒浄上人が弁栄聖者と初めてお会いになった時のエピソードとして「如来様の法身」と理想としていると申し上げる戒浄上人に対して聖者は「いいえ、私どもの理想は如来様の報身であります。それ故報身を本尊と仰がねばなりません。」とお教えになったと伝わっております。戒浄上人はご自坊に戻り善導大師の「往生礼賛」等を改めて読み返し、古来浄土教の祖師と仰がるる方々がいずれも言を極めて報身阿弥陀仏のお徳を讃えてその慈光を仰いでおられる事に気づかれました。爾来それまでの禅流の念仏を捨てて弁栄聖者から与えられた三昧仏の尊像をかけての念仏をお始めになりましたが、「この木偶の坊 !」と思いもかけない言葉が口をついて出てきてしまいます。如来様のお木像・お絵像を木偶の坊などと思ったことのない上人でしたが、長年法身を理想として無相無色に偏していたためこのような事が起こったものと考えられ、この木偶の坊と言う言葉が出なくなり三昧仏様を心から三拝九拝できる様になるのに3年を要したとの事です。そして後に戒浄上人は「聖者に《法身》でなく《報身》をお念じするようにとのご教示を受けた時、最初は従来の報身仏をお念じ申すのかと思っていたのだが、間もなく、法身の中心である超在一神的汎神の絶対の報身をお慕い申すのが、釈尊・弁栄聖者の真精神であると共に、最晩年に三身四智の仏眼を実現しながら善導大師・法然上人が外にお明かしにならなかった真精神であることをしかとお教え頂きました。」と述懐しておられます。


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