NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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「私どもには本来宇宙大の身と心がある。それが無明の心のために認識されないで、この物質的拘束を受ける身と心だけを自分の身心であるかの如く誤解しておる。」この事実に明了に気づく事が実に大切であります。この事実に早く気づいて、本来大宇宙を身とし心としておる私どもの真実の姿を正しく体験すべく精進努力しませんと真理の認識も、数学の本質真相も正しく直観出来る様になれません。
 相対的差別の現象の一つ一つに絶対の真理を直観出来る様になりました所を弁栄上人は無生法忍の境界だと申されました。この無生法忍を得ますと無定義要素の実質的内容も正しく直観出来ます。数学の理論体系の価値判断もすらっと出来ます。修行の途中で何ら信念の変更を要せず無生法忍を得る修行方法を初めて明了に私どもにご教示下されました弁栄上人は本物の数学を私どものものとする道をも初めて明了に私どもにお教え下すったと申すことが出来ます。泉 虎一 如是我聞「笹本戒浄上人の御教えより」
「学校の授業で今迄に無い全く新しいものを教える時に、最初から新しい物を厳密明瞭に体系的に説いたのでは生徒は受け入れることはできません。最初は新旧を混交して教えながら、旧を捨てて新を取らなければならない理由を説く。そして次第に旧を捨てて新しいものに移っていく。それにつれて表現形式も新しいものに改めるべきはものは次第に新しいものにする。旧の表現形式をとっておるものについては、表現形式は新旧同一でも、形式の示す内容実質が旧と新とで異なっておる点を厳密明瞭に区別します。このようにして旧から新に移ります。弁栄上人はこの方法をお取りになって玉石混交の方便対機のご説法をなさいました。」(泉 虎一「笹本上人との問答」より)弁栄聖者は24歳の時、筑波山で弥陀三昧発得され、仏眼の初歩から一気に悟の位まで到達されたとされます、その後30代で入の位(三身四智の仏眼)に達しておられたと伝わります。そうでありますのに、聖者がある時期までは従来型の説き方を併用なさり、阿弥陀経図絵の頒布も続けておられた理由の一つが拝察出来る上記の問答です。  ( *140 その1 参照)
「三世諸仏は念弥陀三昧によって正覚を成ず」というのですから座禅では初歩の仏眼さえ開くのが困難でそこまでたどり着く前に寿命が尽きてしまう。念弥陀三昧であっても汎神教的信念であれば、仏眼の開示悟入の悟の位(無生忍)を突破して入の位(無生法忍)に達するのは至難。仏道修行上の最難関とされるここを突破なさったのは、善導大師も法然上人様も晩年亡くなる2.3年前の事であったと言います。汎神教的信念でお念仏をする癖がついたまま進むとその難所を前にそこから信念の変更を余儀なくされ、それが極めて難しいというより事実上不可能となってしまう。それで最初から最後まで【信念の変更をしなくて済むつまり真っ直ぐ進めるように】弁栄聖者が光明主義のお念仏の心得をご教示くださった。これが笹本戒浄上人様によって「成仏の直線道」と表現されたことの、つまりは光明主義のお念仏の中身という事になります。能見寿作「光明主義入門」参照
〈観念〉は知力信仰にて理性を以って観念推察して、仏の相好・智慧・実相等を知見すること。〈憶念〉は如来を恋愛憶念すること。前者は理性、後者は感情にて、哲学的に観察するよりは、宗教的に恋念憶想すること。憧憬して忘るる能わざる如きは、最も宗教の内容豊富なるなり。観察は思索的に冷静的に、恋念は暖温熱誠にて自動的に衝動する感情である。宗教は感情を中心とする。                           『弁栄聖者光明体系:難思光』
因みに憶念という言葉は古くから経典の中にあったが、弁栄聖者はこれにスポットを当て宗教体系における実践修道論の要とされた。つまり仏道修行の中心となる大切なポイントは憶念であると強調された。これが光明主義の念仏の特徴です。「慈悲のみ顔を想いあげお慕いして南無阿弥陀仏」というと、これが伝統的に避けられて来た観念の念仏(観仏三昧)と紛らわしい面がある為注意が必要です。
法身の中心である報身の如来様は、私共の信念に報いて霊応身の身を以て私共が憶い上げる慈悲のみ姿の中にお宿り下さる。身を分けて私共の心の中に入って一つとなって私共をお育て下さる訳ですが、この時 私共の信念が不完全であると不完全な三昧が、完全であって初めて完全な三昧が与えら(得ら)れると言います。私共の心の中にお宿り下さる人格的御身としての如来様が私共を完全円満な仏に導いて下さるお力を持つか否かは信念の如何による。それが信念に報いて・・・と言う意味であり、主観的客体とされる所以でもあります。言い換えれば私共の信念の如何に関わらず、心の中にお宿り下さる如来様は私共をお育て下さり仏へと導いて下さると言う訳ではないと言う事になります。如来様が私共をお導きになるしかたに則らねばお導きに与れない。正しい信念がいかに大切かと言う事です。


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