NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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臨済宗中興の祖 白隠禅師(1687~1768)は、五百年に一度出るか出ないかの法器とされていますが、そのご内証の深さについて私どもが承っております所を少しご紹介させて頂こうと存じます。禅浄一致というような事が言われますが、実は禅宗が当面の目的としている慧眼の真理認識には限界があり、真相の空の側面(如来様の本来無相無識の側面)を観るに留まるのです。事実「仏に姿なく、無相無色である。」と信じ見性成仏を目指して座禅に励んだ結果慧眼が開けて見性すると仏は本来無一物・無東西・無相無色という所を観ることが出来ます。所がその先さらに一心に修行をしていくと如来様の光に照らされて自然に法眼が開けお姿(妙色相好身)を拝む・・・つまり「慧眼極まれば法眼開く」というのがあまり知られておりません。「白隠禅師も自ずから法眼開け、晩年念仏に帰せられました。空を見ること極まれば法眼開く。法眼極まれば大慈悲の聖容を明瞭に見奉る。だから禅宗では慧眼だけ開けているのは未(いま)だしと言える。」「ただし禅宗では自然に法眼が開けて、如来様の妙色身を見奉る白隠禅師様のような例は極めて稀で宗教的天才を要し、ましてやさらに進んで仏眼を得る方は実に稀である。」と私どもは弁栄聖者の直弟子笹本戒浄上人様より承っております。聖者が念仏修行により法眼から入って慧眼が開け仏眼に至るまで信念の変更を必要としない道筋をお示し下さった事の意義もここにあります。如来様は本来無相無色に在すと同時に本来人格的お姿に在す。これが如来様の事実である事を聖者は三身四智の仏眼をもってお示しになられたのです。                        

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