NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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   山崎弁栄上人 略伝

 弁栄上人は 明治維新から遡ること十年程前の安政六(一八五九)年下総の国(現在の千葉県)鷲野谷の農家に生まれた。幼名を啓之助という。信心深く若い頃から日の念仏を欠かさなかったという祖母を持ち、父嘉平もまた念仏嘉平と呼ばれる程 熱心な念仏者であった。啓之助少年は仏様の話を好み、自分で仏画を描いたりもしていたという。弟を亡くした十二歳の秋、彼岸の中日に家の裏で西の空 林の向こうに弥陀三尊を想見してその聖容に憧憬し 欣慕措く能わず、その頃のお歌に「仏にも神にもなると聞くからは 吾は聖にならまほしけれ」とある。この弥陀三尊は程なく弥陀一仏に絞られたと伝わるが、十五歳頃になると農事の手伝いの傍ら近くの寺から仏書を借り出して読んだり写したりしつつ、出家の思いを抱き始める。

 父嘉平の許しを得て念願が叶い、明治十二年二十一歳で出家し、名を弁栄と改めた。この時の剃髪授戒の師大谷大康師について小金の東漸寺にて修行、睡眠は三時間程にて念仏・読書に励む一方師より「華厳事無礙法界」「天台四教義」「天台三大部」の手解きを受ける。

 明治十四年 二十三歳で東京へ遊学することになり、増上寺学寮等に住まいしながら増上寺へ通学した若き日の上人は「一心法界三昧」を修し、翌明治十五年 二十四歳の年には駒込吉祥寺学林における卍山實辨老師の「華厳五教章」の講義に通う。その往復に、口に称名し意は阿弥陀仏の聖容を想って神を凝らしていた所、ある日「蕩然として曠廊極まりなきを覚え、その時弥陀の霊相を感じた」という。この年の夏、故郷鷲野谷の医王寺薬師堂にて半素絹を纏い米麦蕎麦粉を食しつつ参籠すること二十一日、次いで筑波山に入りニカ月に及ぶという壮絶な念仏三昧修行の末、ついに(悟の位の)仏眼を開き三昧発得した。その時の偈が「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了」である。同年小金東漸寺において五十世静誉上人から浄土宗の血脈を相承し正式に法然上人の信心を継承する者と認められた。                                                                                                           

 明治十六年より足かけ三年、東漸寺所蔵の一切経を読破するという行に入り、その間恩師大康老師の遷化に際しては百日間の不臥不断の報恩別時念仏をした。その志の深さと卓越した修行態度に(当時の)増上寺法主福田行誡和上も「東から名僧が出る」と感嘆随喜されたと伝わる。閲蔵生活を終えた上人は東漸寺より五香にある説教所へ移るが、籠っていた(今の埼玉県にある)周円寺では粗食にて一心不乱の念仏をし、小刀を腕に刺して眠気をしのいだ傷痕は後年まで残っていた。それから亡き恩師の遺志を継いでその説教所を善光寺として建てなおすべく、資金調達為の近国巡行を繰り返し、明治二十四年 三十三歳の時漸く五香に善光寺が建った。翌年には小石川伝通院内に勧進に協力した浄土宗本校も落成する。

 明治二十七年から二十八年にかけて上人はインド仏跡参拝の旅に出る。帰朝後は持ち帰った土でレリーフを作り配布、さらに「阿弥陀経図会」二十五万部を施本し、加えて米粒名号・仏画・墨跡を領布すること無数、結縁は広く関東から東海一円にまで及んだ。明治三十三年参州(三河)を巡錫中に大病を患い法城寺にてしばらく静養することとなる。その後しばらく長期の伝道を控えた上人は 後に書簡で「三十四、五年頃大いに感ずる処ありて伝道の余暇浄土教の哲学方面を研究することに努めて大いに得る処があり、関西の仏教が盛んな土地に於いて僧侶衆に請われて十数箇所で講習会を開いた」としておられる。この間 五香・善光寺の留守居の者に篭って念仏するの為の柩を用意するよう予め細かく指示を出し、寒中戻るなりその中に端座して一カ月の間昼夜を隔てずの念仏三昧を修する。これを機に悟境はまた一段と深まりを見せたとされ、ある信者への書簡によれば、このとき「十二光によって如来の霊徳を開くの命を奉じ」たとある。この《阿弥陀如来の要素である十二光による教説》についてはこれを如来様より与えられた宝蔵の鍵としておられ「この鍵無しには衆生は如来の秘蔵を開いて甚深の内容を窺うことが出来ないけれども、未だかつてそれを知る人師なく宝の持ち腐れであった」と漏らされており、「如来光明三昧をもって主義とし奉る」とされたここに光明主義の萌芽が見られる。明治三十五年「無量寿尊光明嘆徳文乃要解」を領布し光明主義としての法門の端緒が開かれると 明治三十八年より大正にかけて「十二光和偈」「光明会趣意書」「浄土教義」「大霊の光」「如来光明会礼拝式」等が次と刊行され新たに独自の念珠も考案された。

 大正元年宗祖の七百年大遠忌を機に善導寺貫主広安真髄僧正の招きで九州入りした上人は九州各地を巡教し、帰依者多数を得て、同地に法の種まきがなされた。 この頃になると、如来様の命を奉じたこの十二光の教説による布教が始められることにより新しい法門としての光明主義の形が整い、大正ニ年にはまとまった講義がなされ、大正三年、名称も新たに「光明会」が発足している。

 上人の教えは、十二光による教説と、その十二光に含まれる《無辺光》仏の御徳である四大智慧「大円鏡智・妙観察智・平等性智・成所作智」をはじめ光明主義の基本概念である認識機能としての五眼〈肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼〉、仏眼の四位〈開・示・悟・入〉それぞれに関する詳説。加えて汎神教と見なされていた仏教を超在一神的汎神教とされたこと、事の法門の系譜に連なる円満な事の法門を確立したこと等、これ迄に類を見ない。これらが経典から演繹的にではなく、ご自身の深い三昧体験から帰納的に説き明かされた。これは三身四智の仏眼を開き無生法忍を得られた弁栄上人にして初めて可能であったと言えるが、法身でなく大宇宙の中心本尊・根本仏としての広義報身に帰依すべきものと信仰の要諦を示された点と、従来宗内に伝えられてきた安心起行の形式に替えて〈起行の用心〉の意義を正面に据えられたことは特に重要と思われる。  

  大正五年六月、講師として弁栄上人は不適格との声が渦巻く中で、総本山京都知恩院における教学高等習会に於いて「宗祖の皮髄」と題して三日間に亘って行われた講演は、当初異安心ではないかと大いに訝しんでいた人達をも含めてその聴講者に深い感銘を与え、後に知恩院より出版されたこの時の講演録は今に至るまで読み継がれている。月を跨いでの追加講演も聴く者の感涙を誘った。翌大正六年三月には知恩院勢至堂にて弁栄上人ご指導のもと第一回如法別時念仏三昧会が開かれ、この別時念仏会はご遷化の年大正九年迄毎年行われる。大正六年は四月から九月まで朝鮮各地で巡教されたが、朝鮮語をご存じないと思われる上人が随行通訳の訳し漏らした箇所を必ず補って説法を続けられたという有名なエピソードがある。

 大正七年相模国当麻山無量光寺へ第六十一世法主として入山。この寺は当時 時宗当麻派の大本山であったが、末寺に浄土宗寺院が多く浄土宗からご法主が入られる慣習があり、弁栄上人は寧ろ自由な布教活動を念頭に入山の話を受けられた。翌大正八年四月には同所に光明学園開園、千葉の布鎌に続いて六月には松戸に光明会堂設立、八月になると信州上諏訪唐沢山阿弥陀寺にて第一回別時念仏会の指導に当られた。美しい諏訪湖を臨むこの弾誓上人ゆかりの唐沢山阿弥陀寺における毎夏一週間の別時念仏三昧会は今も開かれている。念仏会の指導・授戒会・原稿やお便りの執筆・墨跡仏画の染筆等、上人には寸分の暇もない日の連続であったが十月十六日より廿日市(山口県)潮音寺の別時念仏会においては、主だったお弟子方を前に「念仏七科三十七道品」についての貴重な講述をされた。これについては橋爪勇哲師による「念仏三十七道品御講演聴書」がある。ついで十一月、月刊機関誌「ミオヤのひかり」発刊。これは上人の遷化後も主に遺稿の掲載という形での刊行が続いた。

 大正九年も年頭より各地への巡錫に出られるが、一段と加速度を増す過密スケジュールに数年来の無理が重なり、ついに巡錫中の柏崎極楽寺にて病に臥した上人は危篤の報に驚き全国から駆けつけたお弟子方の見守る中、十二月四日早朝 称名しつつ遷化される。その御徳を慕う人により朝から深と雪の降る柏崎で荼毘に付された後、ご遺骨は亡くなられた地〈柏崎極楽寺〉・出身地〈五香善光寺〉・浄土宗の本山〈京都知恩院〉・そして〈当麻無量光寺〉の四カ所に分骨された。

 弁栄上人様ご遷化後の光明会を主監として引き継がれた笹本戒浄師は、受け継いだ光明主義の法灯を伝えることに尽力する一方 、もう一人の高弟田中木叉師に全国に散らばるご遺稿の収集と言う大仕事を依頼された。木叉師は心血を注いでその任にあたり、収集した膨大なご遺稿を編集・出版された。この二人の高弟の献身によりこの尊くして尊い教えが、かろうじて今に伝わる。                   



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