NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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仏教では私達は無明の闇に覆われていると申します。所が実はここに一切智・一切能の如来から何故無明が発生するのか、キリスト教で言えば全知全能の神が何故不完全な人間をお造りになったかと言う(これは原罪の出どころと自由意志とは何かと言う問題も孕んだ)大問題がある訳です。弁栄上人は、古来より定説がなく難問とされた此の問題についてもまず無明に(実)体がないと言う事を仰った上で、無明とは如来蔵性の属性である一切能が活動し、一切智の未だ顕現しない『状態』の事をいうと明快に説き明かしておられます。宇宙の本体でありまた個人の根底にある所の如来蔵性の属性である一切能は不識的に働く意(志)力ですが、万物に秩序が存するのを見ても分かる通り本来自ずと一切智を伴って働くのです。ただ本来同時に働く如来様の一切智と一切能が自然界に展開するにあたっては、一切能の活動が先行し一切智が伏能の状態にととまっている過程があり、この一切智の発現未だなき状態を一切智の光が未だ射していないので「無明」と名付けるとして大問題を解決なさいました。もし無明の風という如く無明に体があるとすれば、如来蔵性はそのような悪の原因を発現したと言う問題を抱え込むことになります。そのような不完全の原因となるものを如来蔵性が発現することはあり得ず、体は清浄そのものでありながら無明とはその清浄なる状態が未だ現れていない状態であるとされたのです。無明(と言う状態)は又生きんとする意志、生きる力のもとでもありますが、それが滅びなければ生死流転から解脱する事は出来ません。


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