NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
[188] [187] [186] [185] [184] [183] [182] [181] [180] [179] [178]

経に「仏身を観る者は亦仏心を見る。仏心とは大慈悲是なり。」とある如く、「愛の権化である仏の相好を仰ぎ見る時満腔の慈悲にうたれて仏心の大慈悲なることを思い、如来を憶念せざるを得ない」と弁栄上人は述べておられます。そして此の如来の大慈悲に感応する人の心を心理上最も優美・高尚・微妙・甚深という他ない不可思議的感情であると。信仰における情の大切さを繰り返し繰り返し説かれた上人は初めは子が母を愛慕するが如くであるものが、成長して異性を要求するが如きに到ると、『霊恋』(霊的恋愛)と言う独創的な言葉を用いて宗教的心情の、ひいては信仰の深まりを表現なさいました。そして宗教の中心真髄は如来様と衆生の不可思議的神秘の融合にあるとして大正五年「宗祖の皮髄」と言う題のもと京都知恩院勢至堂における高等講習会で行われた講演でも法然上人の道詠「かりそめの 色のゆかりの恋にだに あふには身をも惜しみやはする」を引いて異性を恋愛する程に霊を愛恋することあらば必ず神秘融合・神人合一が実現すると説いておられます。

信仰が人格に反映することを強調なさった弁栄上人は、「愛は感情の信仰。愛は如来の霊応と感応融合を切望するの動機なり。如来を信楽(しんぎょう)して全く我がものと想うは感情の奥なる愛の念なり。憶念して離れ難きは愛あればなり。愛というも肉の愛にあらず。高妙なる霊的恋愛なり。・・・宗教的天才の人は霊恋の情に富めるが如し」「霊的恋愛がこまやかになるとその霊的恋愛が法身に感応して、妙色相好身の如来様がお遇い下さる」とし、『法華経』からは「一心に仏を見んと欲して恋念して止まざれば、仏前に現じて為に説法し玉う。」とあるのを引用しておられます。仏教においては「愛」と言う言葉のこれまでにない使い方で、新約聖書を持ち歩いておられたと伝わる弁栄上人が聖書から幾つかの単語を借用されたと考えられ、聖歌と共に愛の宗教と言われるキリスト教の影響が見られる点です。特に聖書にある「なんじが心を傾け、なんじが魂を尽くし、またなんじが力を尽くして、なんじの主なる神を愛すべし。」(マタイによる福音書22-37章)の一節には、宗祖が全力を注ぎて如来を愛するに酷似すると強い共感を示しておいでになります。

宗教は衆生をして人格的に霊活せしむるにあり。故に弥陀は、衆生を愛する大慈悲が相好に表れ、万徳円満なる人格と現れ、如来の人格現は其の光明に接触する念仏者を人格的に霊化する為である。弥陀の威神極まりなく厳臨し給うことは、衆生の人格を神聖ならしめんが為にて、慈悲の相好は我等が内容を愛化せん為である。(ミオヤの光摂取の巻 二巻四一0頁

如来は絶対無限大威霊と大自在と大慈愛とより我らを愛したまう慈悲からして、いと麗しき慈悲の面を表して我を愛し給うことを示したまう。その慈悲の表現に対しては実に我等は愛慕恋念せざるを得ぬ。真実に宇宙間唯一無二の霊的人格現に対しては我らは愛慕せざるを得ぬ。宇宙全体の大霊より表現したる人格現なればその所現の身の大小に拘らず絶対の表現なり。この霊的表現の弥陀より外に自己の絶対的に帰命真愛するものはなし。(人生の帰趣etc.)

*笹本戒浄師愛誦とされる弁栄上人の聖語

満腔の愛より溢れ出ずる称名に霊応美妙の聖容は呼び発(おこ)さるれ、憶念内に充実する時は称名の声禁じ難し、愛楽即ち称名と現われ称名即ち愛楽を満たさむ


コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R