NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
《如来光明礼拝儀》の中の「如来光明嘆徳章」には「無量寿経」から十二光仏の名称とともに弁栄上人が三昧直観なされた超在一神的汎神教に合致する重要な一節のある部分が汎神教的な部分を省きつつ見事に抜き出されています。 「浄土宗所依の聖文は三部経なり。三経は文広博なり。依って三経中の粋を抜きたる如来光明嘆徳章を以って会員信仰の所依とし云々。(書簡集二五九頁)」 古歌に「わけ登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」とあります様に従来自力門・他力門共この高音は、法身理想的啓示すなわち大宇宙を身とし心とし給う法身の体(たい)と三昧合一し涅槃を得た所とされてきました。ところが弁栄上人が実際にこの境涯に達してみると、未だ覚らない所がたくさんある事に気づかれました。そしてこの様に未だ覚らない所のある様な仏などある筈はなく実際は(想像と違って)そこが無上正覚の境涯でない事を体験上確かめられたのです。「・・・この真理を悟ったのを無生忍(むしょうにん)を得たと言い、形式においては弥陀同体、本然常住の涅槃を証した所。けれどもこれで能事終れりと言うのは甚だ誤謬だ。」と。法身理想的啓示を得て無生忍を悟ったとは法身大霊の形式の一面が悟れただけだったと言うのです。そしてこの境涯を終局的成仏と信じていると汎神教となり、超在一神的的汎神教は少しも解りません。ここを突破して無生法忍の境涯に証入するにはどうすれば良いのか。それを初めてはっきりお示しになったのが弁栄上人と言う事になります。(能見寿作:光明主義入門講座) それまで汎神教であると思われていた仏教ですが、弁栄上人は「超在一神的汎神教」という表現を初めて使って宇宙に中心がありその中心を得れば全体を獲得する事が出来る理を明らかにして下さった訳です。
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