NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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大我に目覚めた事実について笹本戒浄上人様のご紹介下さった原青民上人のお話。原上人は大正大学の前々身である浄土宗大学を出る少し前、肺結核にかかり余命5年の宣告受けた事から病気のつらいのも我慢して真剣にお念仏なさいました。ある夜、一心に念仏しながら、自分と自分を取り巻く森羅万象との関係を考えていました。すると、忽然として何も無くなってしまいました。自分の叩いている木魚の音も聞こえず、周囲の壁も天井も畳も透き通った明るみもない。色も見えず重くも軽くもないし、自分の身体すらなく、全くの無一物となってしまって、ただ在るのはハッキリハッキリだけ。何が確実といって、こんな確実な事はない。しかしやがて平生の我に返ったので、その夜は寝てしまいました。ところが翌朝目覚めて外を見ると、変で変で仕方ない。何が変かと言うと、昨日まで自分の外に見えていた森羅万象一切が自分の内に見えているのです。原さんはその朝から、一切が自分の心であり、一切の活動が自分の心の働きであると思われてきたのですが、次の日もまた次の日もやはりそのようでしたのでようやく落ち着く事ができました。その時の自己はそれまで自分と思っていたちっぽけな「小我」ではなく、大宇宙を我とする「大我」が平生の自己となっていた。そして死なない自分に気づき歓天喜地なさいました。原さんはお念仏をして(如来様の大慈悲により)大宇宙を自己となさいました。この所を禅では「解脱」と言います。私共は生死に束縛され、死に対して何らの自由も持ちませんが、この束縛が解けた所を禅では心身脱落・出離生死・解脱名色などと言います。変化極まりない心身が脱落した所は、ただ平等にして本来無一物、本来無東西。身も心も存するままで、しかも認識が平等一味の「大我」にだけ働く状態。その状態は知られるもの即ち認識の客はなくなり、全く知る主となった所であります。達磨大師は面壁9年で「大我」に目覚め他にその喜びを分とうとなさいました。「壁に向かって9年間も座禅しているなんて、そんな馬鹿なことをやっているより道に落ちている尖った石の一つでもどけた方が意義がある」等と思うのは修行の目的を知らないからに他なりません。

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