NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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《安心起行の形式》つまりこうすれば浄土に行けるという道しるべに対して《起行の用心》とはその道中の心構え・心の用い方を言います。弁栄上人はこの二つを判然と分けてお説きになる事によって過去数百年間における浄土宗宗学上の一大疑念を見事に晴らして下さったと、笹本戒浄師は光明主義における《起行の用心》の重要性を強調しておられます。言い換えると、法然上人様の「一枚起請文」等には安心起行の形式はあるけれども起行の用心がないというのが光明主義の立場です。強いて申せば法然上人様の起行の用心はご道詠の中からかろうじて読み取れるのみであると。それ故、知恩院の高等講習会における講話の際、弁栄上人は宗祖法然上人のご道詠を選んで話をお進めになり、これが多くの僧侶方に感銘を与える事になりました。内容は「宗祖の皮髄」として出版され今も広く読まれております。何れにせよ如来様の慈悲の聖容(みかお)を念いお慕いして行住坐臥に口称念仏に励む事が正しく念仏を修する時の心構えすなわち〈起行の用心〉として極めて大切である訳です。「見仏は本宗の宗とする処」「如来様とお離れ申さないのが宗教の中心真髄である。」(みおやの光大正九年六月号)etc.とある通り。

唯絶対無限光寿、即ち弥陀の聖名を崇び、聖意を仰ぎ、それに帰せんが為に意に弥陀の身を憶念し、口に弥陀を称へ、身に弥陀の行動を実現す。一念弥陀なれば一念の仏。念々弥陀なれば念々の仏。仏を念ずる以外に仏に成る道なし。三世諸仏は念弥陀三昧によって正覚を成ずと南無。」(ご遺稿より)  これが一枚起請文に相当する弁栄上人のご垂示です。


「法身は統摂すれども摂化の力なく、応身は教化すれども統摂の力なく、報身が独尊・統摂・帰趣のお方であり衆生の心霊を霊化する。」これが従来の汎神教としての仏教では仏道修行上の最難関(法身理想的啓示を得た無生忍「悟」の位から大乗仏陀釈迦の三昧たる無生法忍「入」の位へ証入する)を突破する事が出来ない理由です。

笹本戒浄上人が《旧来の仏道修行》を航海に喩えて、目的の島影は全く見えていない霧の中を羅針盤や海図を頼りに当面の行く先を定めてとにかく舟を進めている様なもので、羅針盤や海図にあたる師家や聖典を頼りに、弥陀の四大智慧のうちの一つを当面の理想として修行を進めるものの一寸先が見えず、霧の中仏法という大海を手探りで進むが如きである。大乗仏陀釈迦の三昧がどの様なものであるか見当もつかないのだと。それに対して弁栄聖者の進まれた道は、晴れ渡った海上の遠方に見える遠く霞んだ島影に憧れて一生懸命舟を進めて行くと、その島に近くにつれて次第にその島影が大きく益々鮮明に見えてきてついに島に着いた。そこが大乗仏陀釈迦の三昧という真善微妙の霊天地であった。と言う様なものだと喩えておられるそうです。弁栄聖者の歩まれた道には(紆余曲折や停滞・行き詰まりがなく)障碍するものがなければ水は最短距離を一直線に流れ落ちる様に何故か一番良い道ばかりを選んで進まれた如き観があります。その秘訣を聖者は「見仏は本宗の宗とする処、結帰する処の見仏にある。」と狭義見仏を所期とする念仏が唯一大乗仏陀釈迦の三昧へ至る道である事を戒浄上人様に伝授なさいました。
成仏の本義を示されたご垂示に「唯絶対無限光寿、即ち弥陀の聖名を崇び、聖意を仰ぎそれに帰せんが為に意に弥陀の身を憶念し、口に弥陀を称え、身に弥陀の行動を実現す。一念弥陀なれば一念の仏、念々弥陀なれば念々の仏。仏を念ずるほかに仏に成る道なし。三世諸仏は念弥陀三昧によって正覚を成ずと南無。」と。

幼児が母親の言う事を素直に信じてその通りに行動するのと同じ様に弁栄聖者の御教えを素直に信じ、機会あるごとに自分の心に深く刻み付ける様に努め、実行する。すると法身の中心である報身が私どもの信念に応じた相対的の御姿でありながら常に常住不変で一切の規定を離れ一切の差別を離れた常に同一の妙色相好身を私どもの心の中に現じて、私どもをお育て下さる。それで凡夫が信念の変更を要しないで、この世で三身四智の仏眼を実現する事が出来る。これが弁栄聖者が『見仏は本宗の宗とする処、(宗は)結帰する処の見仏にある』と言っておられる光明主義の生命とする見仏である。もし三身即一の報身がただの差別の妙色相好身に在しますなら、報身の慈悲の聖容をお念じ申す一点張りの見仏で、凡夫が信念の変更を要せず三身四智の仏眼を実現する事は不可能。「法身の中心である報身の御姿は、本より絶対真実円満で、真理そのもの理法そのものの妙色相好身である。私どもの心に想い上げられる大ミオヤの御姿は、私どもの信念に相応した差別の御姿でありながら実に一切の規定を超絶し一切の差別を離れた絶対不変の妙色相好身である。この慈悲の聖容をいつもはっきりお念じ申しておるように全力を注ぐ【狭義の見仏】が一番良い念仏三昧の道である」と聖者はお教え下さいました。参照:光明主義文献刊行会「光明主義玄談」 巻三
仏教は成仏を理想と致しますが、その修行法に最初から終わり(成仏)まで信念の変更を要しない直線道と途中で必ず信念の変更を必要とする曲線道があります。弁栄上人様はご自身の実地体験済みの事実として私共に成仏の直線道をお教え下さいました。円満な仏となる為に、如来様をお慕い申していつも慈悲の御姿(聖容)をお念じし見奉っているようにするのが成仏の直線道。御姿でなく御名に心を注いで念仏しても、禅、天台、真言より入りましても必ず途中で信念を変更しなければ決して円満な仏になれません。事実この通りでありますから、入信の第一歩から直線道の念仏を申すのがよろしいのです。光明主義玄談巻一 より
人の機根は様々ではあるものの、結局は《狭義見仏》の道を行く以外に【大乗仏陀釈尊の三昧】には入れません。それで弁栄聖者は紆余曲折の回り道をさせたくないとの大慈悲の思し召しから狭義見仏所期の憶念の念仏に入り易いように三昧仏様のお絵像を私どもにお描き与え下さった訳です。仏道修行には無量の三昧があるのですが、そのどれをとって修行しても究極は釈迦の三昧に入れるというのではありません。それは無量にある三昧門を放浪しているに過ぎないのであって釈尊(と同等)の三昧に入るにはただ一筋の中心道としての念弥陀三昧があるだけ。これが名実ともの王三昧なのであり、部分をいくら得ても全体を得尽くす事は永久に不可能と言えます。参考 能見寿作:光明主義入門講座


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