NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
越後の国の浅井法順上人往生のご様子についてご紹介致します。大正8年3月1日から7日まで知恩院勢至堂に於いて開かれた弁栄聖者ご指導の念仏三昧会を発起・厳修なされた浅井上人ですが、7日間滞り無く終えられ一緒に参加なさっていた奥様とお帰りの際、せっかくなので京都見物をして帰りましょう(本来はこういう場合は寄り道をせずに帰るのがよいのですがそれはさて置き)とおっしゃる奥様に対して「いやそれどころではない。早く帰って臨終の支度をせねばならぬ。」とおっしゃっるので奥様は驚いて一緒にお帰りになられたそうです。間もなく床に就かれた上人は念仏絶え間なく、「お釈迦様や法然上人様も臥して往生されたから自分もそうしよう、往生の日は法然上人が往生なされた25日である。」と仰せられた。25日が近づき、いよいよその前夜「私の臨終の時にはお念仏の声が高くなるからそれまで隣室に居るように」との仰せに一同隣室にて休んでいた所、日付も変わる頃果してお念仏の声が高く聞こえたので入室してみるとお顔麗しく輝き障子紙を震わせる程の高声念仏。そのお声が次第次第に低くなり、やがて息が止まって大往生なされたのは正しく大正8年3月25日であったと言うことです。
弁栄聖者は在家・出家を問わず多くの人々をお導きになりましたが、山口・善生寺の熊野宗純上人とのお出会いの様子が伝えられておりますので少しご紹介致します。大正8年夏、初めて聖者に会われた上人は「冒し難き崇高の人格」と「慈悲溢れる温容」に接して言い知れぬ充実味を心の奥底に覚えたと言います。そして「あなたは如来様を自分を生んでくれた母親のように思いますか」とのお尋ねに「いいえ。」と答えた上人に対し、「真剣に念仏すればきっとそう思えるようになります。」と聖者。この簡単なお言葉に熊野上人は腹をえぐられ長い眠りから覚めた思いになられました。それまで上人が学んできた宗乗は冷たい知識で、如来様も温かい血の通った親のようには感じられなかった為念仏の醍醐味も無く無味乾燥。微妙荘厳のお浄土も架空としか思えなかったのです。この時の会座で聖者の5日間の熱心なお導きに与った上人は信心喚起し目から鱗。聖者を如来の顕現と仰いでその後も益々念仏精進し大いに心境を深められたとの事です。
伊予松山・月照山大林寺の先々代ご住職大島玄瑞上人は弁栄聖者の光明主義へのご理解深く、松山学生光明会etc.後身の指導にも尽力なさった方です。さて大正9年秋、聖者は知恩院の勢至堂において京都光明会主催のお別時を指導なさいました。大島上人はこの時布教活動をしておられた長野から京都へ向かわれたのです。結果的にこれがお目にかかる最後の機会となってしまったのですが、遠縁の者が玄瑞上人から親しく承ったと思われる内容を伝えた記事によりますと、いきなり聖者が「大島さん、信州の布教が無事にお済みなさいましたな。」とおっしゃったので度肝を抜かれたと言います。実はどうしてもこの機会をはずしたくないと思われた大島上人は、法話の時間をなんと一回あたり30分づづ縮めて予定では二十日間のところ十八日間で何とか布教を終わらせ、本山への報告もせず聖者のもとへ直行なさったとの事。それで恐らく開口一番「大島さん・・・」となった訳で、笹本戒浄上人の礼拝儀講話にも見えるこのエピソードにおける大島上人の驚愕をより生々しく伝えています。
越後柏崎の極楽寺は弁栄聖者が(大正9年伝道途上において)遷化されたお寺ですが、(当時の)ご住職の奥様は聖者と浅からぬご縁のあった方でした。この方が深い悩みに死ぬほど苦しみぬき聖者に(心の中で)救いを求めていらした所、ある夜中に聖者が枕元にお立ちになり「仏憶いの光明を、胸に仏を種とせよ」と7度繰り返されたという光明会では有名なエピソードがあります。不思議に思った奥様の問い合わせに高崎におられた聖者からは「大変危ないから早く行って助けてやれとの如来様のお指図によりあなたの胸の悩みを取る為に行った。夢でも妄想でもない。」とのお返事。適切なお導きにより念仏に励まれた奥様は済度に与ったそうですが、この時聖者は高崎から柏崎まで飛んで行かれた・・・というのなら天眼(自然界を観る三昧の眼)でも出来る。そうではなくて聖者はその御身を分かちて(同じ身体を)柏崎に現して奥様をご済度なさったと言うのです。これを分身利物と言い、仏眼・妙観察智のお力による旨私どもは承っております。
弁栄聖者は米粒に細字で南無阿弥陀佛と書いて分かち与えておいでになりましたので、むしろそれで広く知られ米粒行者と呼ぶ人もあったようです。大正8年(亡くなられる前年)の夏、念仏修行の会(お別時)の為に信州・諏訪湖を望む唐沢山に上られましたが、そこで高文(高等文官試験)の受験勉強をしていた学生達の中に聖者のご指導を受ける事になった方があります。そのお一人 高橋猪久氏がお供しておられた時のこと、聖者が名号をお書きになった米粒を紙で包むお手伝いをなさったそうです。とてもついていけない程のスピードで書き続けておられた聖者が突然ピタリとお止めになり「これでよい。」との仰せ。あまり突然だったので少々驚いた氏でしたが後でその日の参詣者にその米粒を配った所、なんと1粒の過不足もなかったので2度驚いたとのことです。氏は又、貧しい学生であった当時聖者の手にしておいでになったお札(紙幣)を見て一瞬「欲しいなぁ」と思った刹那、「高橋さん心に草が生えましたね。」との仰せに雷に打たれたと同様の衝撃を受けたエピソードetc.も遺しておられます。
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