NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
[1] [2] [3] [4]
笹本戒浄上人が弁栄聖者と初めてお会いになった時のエピソードとして「如来様の法身」と理想としていると申し上げる戒浄上人に対して聖者は「いいえ、私どもの理想は如来様の報身であります。それ故報身を本尊と仰がねばなりません。」とお教えになったと伝わっております。戒浄上人はご自坊に戻り善導大師の「往生礼賛」等を改めて読み返し、古来浄土教の祖師と仰がるる方々がいずれも言を極めて報身阿弥陀仏のお徳を讃えてその慈光を仰いでおられる事に気づかれました。爾来それまでの禅流の念仏を捨てて弁栄聖者から与えられた三昧仏の尊像をかけての念仏をお始めになりましたが、「この木偶の坊 !」と思いもかけない言葉が口をついて出てきてしまいます。如来様のお木像・お絵像を木偶の坊などと思ったことのない上人でしたが、長年法身を理想として無相無色に偏していたためこのような事が起こったものと考えられ、この木偶の坊と言う言葉が出なくなり三昧仏様を心から三拝九拝できる様になるのに3年を要したとの事です。そして後に戒浄上人は「聖者に《法身》でなく《報身》をお念じするようにとのご教示を受けた時、最初は従来の報身仏をお念じ申すのかと思っていたのだが、間もなく、法身の中心である超在一神的汎神の絶対の報身をお慕い申すのが、釈尊・弁栄聖者の真精神であると共に、最晩年に三身四智の仏眼を実現しながら善導大師・法然上人が外にお明かしにならなかった真精神であることをしかとお教え頂きました。」と述懐しておられます。
京都大学の名誉教授前田達明先生が「光明誌H20年1月号」に投稿なさったエピソードをご紹介させて頂きます。先生のお祖母様が逝かれて4年を経ての投稿でその前の年の夏、お寺に嫁がれた三女さんが修行の為に知恩院に上がられた時の事、修行の最終日に別時念仏に参加なさったのだそうです。お念仏をしていると途中から先生のお祖母様(石谷阿さ乃さん)と娘さんのお祖父さんに当たる故人乾泰正(浄土宗の僧侶)が一緒にお念仏を唱和してくれているのが聞こえて来たと言うのです。娘さんも感動して一心に励まれたそうですが、お別時が終わると隣にいたご友人が開口一番「私達が最後の列なのに、後ろからお念仏の声が聞こえたので振り返って見た所誰もいなかったのだが、貴方には聞こえませんでしたか?」と。娘さんも驚いて「実はかくかくしかじかでした」とお答えになりますと「私の父も寺の住職ですが、お念仏を唱えると摩訶不思議な事がよく起こると申しております。」とおっしゃったそうです。ご加勢下さったお二人にして見ればそれぞれひ孫さんとお孫さんにあたる娘さんがお別時に参加しているのを喜んで共に唱和となったのであろうと先生はお念仏の有難さを再認識したと結んでおられます。
経論に三昧修行を妨げるものとして五蓋というのが挙げられているそうです。貪り・忿怒・昏眠・心の躁動・疑い 等です。明治末期、透視の出来る女性の話が注目を浴び東大助教授で心理学の大家であった福来友吉博士が千里眼を認める立場から公開実験をなさいました。これが失敗に終わった為に誹謗中傷の的となり博士は帝大を追われ、被験者御船千鶴子は自殺に追い込まれ、千里眼はインチキであるという事になってしまいました。その結果が未だに完全には覆っていないのは、仏教でいう五眼のうちの一つ天眼のお話を承っている私どもには不思議に思えます。実験の失敗について笹本戒浄上人様は、この五蓋の為に精神統一が妨げられたからだと指摘しておられます。大学内で学者のお歴々の疑いの眼が注がれる中、か弱い女性千鶴子さんの胸中にはもし上手くいかなかったらとの疑いやら上手くやり遂げ誉まれを得たいとの欲やらがあったとしてもおかしくありません。そんな場合は三昧に入れないのは当然なのですから 今日は透視ができませんと断っても差し支えない所でした。福来博士はこの五蓋の事をご存知なかったばかりにあのような結果を招いてしまわれたと。
大我に目覚めた事実について笹本戒浄上人様のご紹介下さった原青民上人のお話。原上人は大正大学の前々身である浄土宗大学を出る少し前、肺結核にかかり余命5年の宣告受けた事から病気のつらいのも我慢して真剣にお念仏なさいました。ある夜、一心に念仏しながら、自分と自分を取り巻く森羅万象との関係を考えていました。すると、忽然として何も無くなってしまいました。自分の叩いている木魚の音も聞こえず、周囲の壁も天井も畳も透き通った明るみもない。色も見えず重くも軽くもないし、自分の身体すらなく、全くの無一物となってしまって、ただ在るのはハッキリハッキリだけ。何が確実といって、こんな確実な事はない。しかしやがて平生の我に返ったので、その夜は寝てしまいました。ところが翌朝目覚めて外を見ると、変で変で仕方ない。何が変かと言うと、昨日まで自分の外に見えていた森羅万象一切が自分の内に見えているのです。原さんはその朝から、一切が自分の心であり、一切の活動が自分の心の働きであると思われてきたのですが、次の日もまた次の日もやはりそのようでしたのでようやく落ち着く事ができました。その時の自己はそれまで自分と思っていたちっぽけな「小我」ではなく、大宇宙を我とする「大我」が平生の自己となっていた。そして死なない自分に気づき歓天喜地なさいました。原さんはお念仏をして(如来様の大慈悲により)大宇宙を自己となさいました。この所を禅では「解脱」と言います。私共は生死に束縛され、死に対して何らの自由も持ちませんが、この束縛が解けた所を禅では心身脱落・出離生死・解脱名色などと言います。変化極まりない心身が脱落した所は、ただ平等にして本来無一物、本来無東西。身も心も存するままで、しかも認識が平等一味の「大我」にだけ働く状態。その状態は知られるもの即ち認識の客はなくなり、全く知る主となった所であります。達磨大師は面壁9年で「大我」に目覚め他にその喜びを分とうとなさいました。「壁に向かって9年間も座禅しているなんて、そんな馬鹿なことをやっているより道に落ちている尖った石の一つでもどけた方が意義がある」等と思うのは修行の目的を知らないからに他なりません。
越後の浅井法順上人の往生のご様子をご紹介させて頂きましたので、この機会に江戸時代に出られた徳本行者(1759-1818)の往生のご様子を少しご紹介致します。徳本行者は弁栄聖者がそのお悟りの深さにしばしば言及しておられいわば別格とも申し上げてよい方です。亡くなる前の月の別時念仏の折「我が臨終も近い」と仰せられてより将軍家を始め各所よりお見舞い面会等のご所望ひきもきらず・・・となった訳ですが、翌10月6日のあかつきが現れ始めた頃「今日はわれの往生する日である。お釈迦様お涅槃の時も、元祖(法然)様ご入滅の時もみな頭北面西で臥しておいでであった。われは16歳より今日まで一日も横になって寝なかった念仏行者である故、座ったままの往生はいと容易(たやす)いが仏祖にならって横になろう。」とおおせられ初めてお布団の上へ。にっこりと「さあ、これから念仏しよう。」とおしゃるや全身全霊打震わせての強く大きなお念仏のお声が小石川一行院(行者を江戸へ引き留めたいとの信者達のたっての願いにより御自行とご教化の為建てられた道場)の門の外まで。唱和のお弟子方が疲れてしまうのにひきかえ、少しのお疲れもお見せにならない行者は、巳の中刻お食事をなさった後、お筆をとってすらすらと辞世の歌をしたためられたと伝わっております。
 南無阿弥陀仏生死輪廻の根をたたば 身をも命もおしむべきかわ 徳本

お筆をお弟子に渡すとご満足の笑みをたたえつつ子供のようにごろりと布団に休まれ、念仏のお声がすこし低くなったと思うや泊然とお命絶えさせ給うたと。所で、徳本行者のご内証の深くして深いことは弁栄聖者によって私どもの知るところとなったのですが、喉から血が出る程の称名念仏等その修行の激しさや数々のエピソードが、芦屋の光明会聖堂発行の「光明」誌に連載されたものをまとめた本「徳本行者」(岡本鳳堂著)に紹介されています。


カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R