NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
笹本戒浄上人様が(弁栄聖者の制定された『如来光明礼拝儀』に沿ってなさったご法話)『礼拝儀講話』の中に、鉄眼禅師の「様々の差別、形はあるに任せて唯一味なり」と言うのが出てきます。最近検察してみて、その尊さに敬服しました。およそ四百年前に何と今でも使われている『黄檗板大蔵経』を大変なご苦労の末、版木から起こして出版なさった方だそうで戦前の国定教科書国語教本には載っていましたので、昔はよく知られていたのかも知れません。大蔵経は一切経とも言い、経・律・論の三部 6956巻からなるおよそ仏教に関する大叢書で、版木にして6万枚に及ぶという膨大な量です。当時国内には無かった大蔵経の版木の必要性を痛感して、17年がかりでこの大事業をなしとけ、まるで燃え尽きるようにその翌年遷化されました。まず版木に起こす為の経本を輸入しようとしていた所、隠元豆で有名なあの隠元禅師がお手持ちの経本(ご自分が中国から持って来たもの)を渡して下さったそうです。資金調達の為、全国津々浦々を勧進行脚してまわられましたが、漸く資金が出来た丁度その時最初は大阪の大洪水、二度目は大飢饉が起こり、その被災民を前に集まった資金を全て投げ出して救済されたのです。その都度一から勧進行脚を始められたので、後年、明治の廃仏毀釈に立ち向かった高僧福田行誡和尚は「鉄眼禅師は三度大蔵経を出版されたようなものだ」とその偉業を称えられました。昭和になって贈られた「宝蔵国師」と言う諱号は禅師のご一生に相応しく、京都宇治の宝蔵院にその6万枚の版木が収蔵されています。(尚、版木の保存の為のプロジェクトも稼働中です。)2024.9.23 【六道輪廻】地獄・餓鬼・畜生の三悪道に修羅・人間・天上の三善道を加えた六通りの心の世界を輪廻するのを迷いと言う が、習慣的意思活動は業として即ち勢力となって繰り返し次の生を形作り続けることになる。聖者は生死輪廻の本体は 阿頼耶であるが、それを導いて再現あらしめるのは意識の作用、言い換えると自己の行為及び意思の勢力であるとされ た。(ミオヤの光 輪廻の巻)これらは自然因果律と善悪の因果律に導かれて発現する。 【三身四智の身となる】成仏の完成。仏眼の最高位「入の位」に入る事を云う。観念的一切智を経て認識的一切智を万位と するが、人間の生理状態が仏化されたこの極致まで、到達されたのはこの地上で釈尊お一人であるとして、光明主義 ではあえて如来様のお世嗣という表現を使う。極楽浄土往生九品の上品上生に相当する。この三身四智の仏眼の満位 が成仏。 如来のお徳を内証の功徳と外用の功徳に分けるうち、三身・四智・十力・四無畏・十八不共法を内証の功徳と言う。 〈三身四智〉と言うのは、この内証の功徳全てを三身と四智で代表させて言うと考えられる。因みに外用の功徳は相 好・光明・説法・利生。 弁栄聖者が三身四智の仏眼(観念的一切智)を開かれたとき、釈尊とご自分の間に唐の善導大師と法然上人を三昧直観された と言う。これに徳本行者を加えて以下の五人の方々が三身四智の仏眼を開かれていたことが聖者によって明かされた。 釈尊(紀元前五世紀)人類史上初めて成仏への道を発見しそれを示された。そのお悟り(達成された)成仏の境地が三身四智 の仏眼の最高位・認識的一切智である事が弁栄聖者により史上初めて明らかにされた。 善導大師(六一三年~六八一年頃)中国唐代の長安で布教活動された三昧発得の師。その主著『観経疏』(観無量寿経の 注釈書)の一節「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念々不捨者名正定之業 順彼仏願故」により法然上人が浄 土宗を開かれたので高祖と仰ぐ。 法然上人(一一三三年~一二一二年)浄土宗の開祖。主著「選択本願念仏集」の他に「一枚起請文」が重視されるが、弁 栄聖者は後にその内容が「宗祖の皮髄」として刊行された大正五年知恩院における高等講習会でご道詠を挙げつつ法 然上人の真精神をお明かし下さった。 *光明主義では法然上人は最晩年に三身四智の仏眼を開かれたと見る。 徳本行者(一七五八年~一八一八年)江戸時代後期紀州に出られた念仏行者。壮絶な修行で知られるが、遺されたお歌に よりそのお悟りの深さが偲ばれる。弁栄聖者によってそれまで知られていなかったその境涯が三身四智の仏眼の境涯 である事が示された。ひと目でそれと分かる独特の字体による六字名号碑は現在の長野県・和歌山県・神奈川県など 広範な地域に見らその数 数千基を超える。 弁栄聖者(一八五九~一九二0)光明主義を主唱し釈尊・善道大師・法然上人の真精神(真の境涯の内容)を、今を生きる 我々に明かし伝えて下さった。 相模原如来光明会 October2007 作成 / December 2022 改定
【演繹と帰納】 聖者は経典を拠り所として演繹的に説くのではなく、自身の三昧体験に基づいて帰納的に説くとしておら れる。ご自身の(三身四智の仏眼による)三昧体験から得られた如来様の事実を拠り所として説かれたたいうのが光明主 義の最大の特徴 【理の法門と事の法門】 無相無色の三身即一である本体の法身を根本仏と仰ぐ理の法門に対して、光明主義は法身の粋で ある報身を根本仏と仰ぐ事の法門と言える。 *本文 仏身論のコペルニクス的転回 参照 【理法としての仏法】 如来様は大慈悲のお方であるが頼んでも頼まなくても私どもを救って下さる訳ではなく救われるべ き理法に依らなければならない。仏法は理法としての仏になる法。仏の光明は遍照であるが、これを受けるには受信器 たる三昧の心がなければならない。粗略な心をもってしては現象としての感応は起こらない。 【有余(うよ)涅槃と無余(むよ)涅槃 ・無住処涅槃】聖者はご自身の三昧体験によって無余即無住処涅槃の真相を仏 教史上初めて正しくご教示下さった。 *光明主義では慧眼・法眼のみならず悟の位迄の仏眼の境涯でこの世を去りお浄土に生れるが、未だ如来化すべき肉の心が残っている為に(娑婆の世界で作った業は娑婆の世界で修行して浄化する他はないので)自然界に出て三身四智の仏眼を得るまで修行させて頂く人の場合も肉体はないけれどもより厳密には無余涅槃ではなく、有余涅槃であるとしておられ、従来の見方とは明らかに異なる。七覚支を卒業して八正道に入り、三身四智の仏眼を実現してこの世を去ると〈体は本覚の都にあって化を百億に分ち、衆生済度の活動絶え間ない〉無余即無住処涅槃が実現する。この三身四智の仏眼の満位が成仏であり、光明主義の最終目的とする処。「無住処涅槃とは、生死に住せず涅槃に任せず、永恒常住に、一方には涅槃界に安住して、また一面には生死界に分身応化して、衆生済度の事業未だ曾て暫くも懈廃せざるなり。故に無住処涅槃と云う。」 (無対光) 【業(ごう)】一般的には習慣的意思活動のこと。迷いの潜伏するのを惑というのに対してその顕現体を指して業ということ もある。 【業事成弁(ごうじじょうべん)】往生の業が決定的になること 【意識】仏教の意識の分類 前五識:(眼・耳・鼻・舌・身識)五感を対象とする表層意識 第六意識:前五識と協働活動する明了意識と協働活動しない不明了意識があり、後者を独頭 (どくず)意識と 言って三 昧心と協働活動して働いた時、広い意味の法界を認識する。 第七末那識(まなしき):(大脳と密接に結びついている)自我観念・小我の中心。曲者とも言うべきこの末那識が頑張ってい る為に、私どもはなかなか永遠の生命に気づかない。* 意識を起すもと、の意味で意根という 第八阿頼耶識(あらやしき):無始以来の業を蓄えている潜在意識であるが、表層意識との相互関連があり仏道修行は ある面から言うと阿頼耶識の処理とも言える。五感を持った我々の身体はこの阿頼耶識から顕現する。一面から 見れば主観、一面から見れば客観として展開する。 第九アンマラ識:真如のこと。唯識で説かれているのは第八阿頼耶識まで。 *末那識は死ぬとこの身体から抜け出るが。死ななくともある特殊な精神統一をすると抜けで出る事があると経文にある。ある人が一心に念仏していると自分が額のところからスーッと抜け出して高くなり低くなりしながら野や林や川や谷を超え色々な景色を眺め、又 来た所を通って額の所からスーッと入って元に戻ったが、あまりマザマザと見たので夢を見たとも思えず実際に行ってみた所、少しも違わない景色をその目で確かめたと言う。(笹本戒浄師法話集より) **昭和九年八月三十一日と九月一日付け朝日新聞に、東京帝大(現東大)医学部の死屍室における異変の記事が載っ た。以前に起こった事件であるが、当時死屍室のアルコール槽で預かっていたある女性の遺体が、故あって夜通しの巡回見張り番をつけていたにも関わらず消えたのだと言う。警察も含め関係者一同大騒動の最中の朝方戻っているのが発見されたのだが・・・午後になって静岡から上京したご両親の話によると、夜中の3時頃娘さん(当該女性)が庭先に現れ迎えに来て欲と頼んで帰っていったと。それがちょうど遺体が消えていた時(3時から6時)のことだった訳だ。この類の話は他にも多数あるが不思議でも錯覚でもましてや作り話でもなく、仏教ではこういう現象を「意」或いは「末那識(第7識)」の働きであるとする旨、一定の時間存在するもやがてなくなり、不滅ではない。霊魂と誤解する人もいるが決して霊魂ではないとの笹本戒浄師による指摘がある。(蛯名寿家夫「念仏遺影」より) 【浄土三部経】阿弥陀仏の在します極楽浄土についてその様子(荘厳)、由来、浄土に生まれる往生の方法など が説かれ浄土門各宗派がそれぞれ根本経典としている。 〈無量寿経〉大経とも言う。聖者はご自身で刊行された『如来光明礼拝儀』に特に上巻にある如来光明歎徳章とも言 われる部分からご自身の三昧体験より超在一神的汎神教に符合する所を抜粋(符合しない部分を敢えて削除 して)採用しこの箇所が最重要であるとされた。浄土真宗が重視する。 〈観無量寿経〉観経・小経とも言い、善道大師に注釈書がある。浄土宗が重視する。聖者はこの観経より「如来はこ れ法界身なり、一切衆生の心想の中に入る。仏身をみる者は仏心をみる 仏心とは大慈悲これなり」を度々引 用された。 〈阿弥陀経〉聖者は図版入りの『阿弥陀経図絵』を作り伝道の初期には広く領布なさった。時宗が重視する。 *聖者は最晩年に三部経を訳し直す強い意向を示されたが、果たされなかった。 【法蔵比丘】大無量寿経に「法蔵比丘大願大行因圓果満始覚十刧」とあるが、これは相対的に規定せられ娑婆世界の習慣に 執する衆生の為に、仮に因果律的にお説きになった善巧方便であるとみるのが光明主義の立場 【法蔵菩薩の神話】如来様の理法として「自作(さ)自受」「他作他受」と言うのが真相であるが、法蔵菩薩のエピソードはこ れが「他作自受」の構造になっている事からも方便説であることが分かる。*本文 法蔵菩薩の神話と本願 参照 【酬因感果の御身】修行の因に酬いて得られた果報の御身という意味 【酬因感果十刧正覚の弥陀】十刧正覚の弥陀とは昔法蔵比丘が出現し給い、大願を発して私ども衆生を済度してやりたいと 思し召して五刧に思惟をこらし、四十八願を立て、その願を実現する為に永劫に修行され、万行成就して正覚を成し阿 弥陀仏となり給うた。それが今を去ること十刧の昔であると無量寿経にあるのをいう。 【大原談義】文治二年(一説に五年)洛北大原の勝林寺丈六堂に天台や南都仏教の主だった僧らが集まり、法然上人から話を 聞いた聴聞会のやり取り。その聞き書きに「人をして欣慕(ごんも)せしむるの教門はしばらく浅近(せんごん)なるに似たれど も自然悟道の密意(みっち)は極めてこれ深奥(じんのう)なり」等とあり、宗義の基として研究された。 従前聖道門では部分的にしか法身に合一出来なかった為、念覚支を超えることが出来なかったが、如来をお慕いすることにより法身の全体に合一 することが出来、先へ進まれた法然上人が学僧を前にそのことを示されたと言うのが光明主義の理解。 【本願】従来は、法蔵菩薩の大悲の願行即ち阿弥陀如来の前身とされる法蔵菩薩の立てられた「あらゆる衆生を漏れなく救 いたいと言う願」とされてきた。光明主義ではそれを神話的表現による方便説として扱い、本願とは宇宙大霊に本然と してあり常刧に働いている衆生摂取の大勢力のことであるとする。 【三生果遂】浄土に生まれたいと願いひたすら念仏すれば、弥陀の本願により三生目には必ず念弥陀三昧成就して往生でき ると言う説。一生果遂説もある。 【選択(せんちゃく)】本願にかなうものばかり選び取ると言う意味 この読み方は浄土宗流 【選択本願の念仏】光明主義においては成仏を目指すのであれば、狭義見仏所期でなければならないと言う立場から 宇宙 の最高中心に在します報身阿弥陀仏の妙色相好身に遇い奉るのを念願する念仏と解する。 【往生】従来は死んで主に極楽浄土に生まれることを言い、浄土教徒の究極目的とされたが、光明主義においては、これを 原義に沿って空間の移動ではなく状態の変化即ち更生と捉え、精神的更生を重視する。聖者は禅の見性成仏に対して念 仏は見仏往生にて(この限りにおいては)達する所は同じ、また浄土とは仏智の現れた所であるとされた。原語は pratyajayate(プラディジャーティ) 【去此不遠(こしふおん)】此処を去ること遠からず。つまり極楽は西方浄土十万億土の仏土を過ぎた所にあるのではなく出 世間の三昧の眼でなくては経験できない光明界であるという事。往生は空間の移動ではなく状態の変化と言われるのも 同じこと。 【霊魂】霊は不滅に名づけ、魂は生滅の方をそう呼ぶとの聖者のお示しがある。普通は霊と魂を分けずにこの体が死んでも 霊魂は不滅などと言うが、いわゆる「霊」が大我であって即ち永遠の生命のこと。 【大乗非仏説】「大乗仏教は釈尊ご自身がお説きになったものではない」と言う意味。故に仏説でなく後代の創作であると 言う主張に用いられる。経文の現代的研究においてはスタンダードとされ、信仰に揺らぎを来たしかねないが、聖者は 大乗経典は仏眼の所感を述べたものなれば肉眼界に住む理性学者の批判を許さざる所である」として無量寿経の歎徳章 を礼拝儀にお採りになるなど、ご自身の三昧体験に基づいてそれと符合する箇所を様々な経典から引用しておられる。 * 総じて大乗諸経典は経典作者の三昧定中における体験が記されていると言ってよい。笹本戒浄上人もご自身の三昧 体験の事実に見事に符合するとして瑜伽論の心理論(第一、二、三)・無我論(第十六)・真如に関する叙述(第三十六、七十三、七十 四)を挙げ、兄弟子の宮本契善師は華厳経の華厳三昧の境地に達していらしたと指摘しておられる。その他法華三昧、真 如三味等々いわゆるお経は要するにある三昧を明らかにする為に説かれた面がある。ただし弁栄聖者は「自分は経論そ の他の著述を根拠に演繹的に説いておるのではない。(自身の三昧体験に基づいて)帰納的に説いておるのだ。」と念を 入れ繰り返し仰せであったと伝わる。即ち経典等に典拠を求めるのではなくご自身が三身四智の仏眼で直接認識なさっ た三昧体験を根拠として、釈尊、善導大師、法然上人の真精神そのものを説いておられる。成立の古い原始仏典のみか ら三昧体験の中身を引き出そうとすると空転する。 【正信論争】(昭和三年~)駒沢大学 学長滑谷快天博士と曹洞宗の重鎮原田祖岳老師の間で繰り広げられた無我と輪廻をめぐ る曹洞宗内の論争。無我をお説きになった釈尊が輪廻をお説きになる筈がない。何故なら輪廻の主体がないではないか とする滑谷博士に対して、原田祖岳師は輪廻を説かぬのは仏教でないとして当時大論争になった。 *笹本戒浄上人は原始仏典『イティブッタカ』を引きつつ、この無我の「我」は小我のことであって大我が無いという 意味ではなく、変わらないものがある故変わるものの拠り所があると指摘しておられる。 【輪廻】思想としては紀元前八世紀のインドに遡ることが出来、仏教とともに広くアジアへ伝搬した。関連性は不明ながら キリスト教が入る前の古代ギリシャでも広く信じられており、ピタゴラス、プラトン等も信奉しいていたと言う。心 の眼が開けば分かるとされ、原始仏典にも繰り返し説かれている。仏教徒が目指す解脱とは即ち六道輪廻のサイクル からの脱却のこと。 《付録》 学生のための 光明主義用語集 *この用語集では弁栄上人様の尊称「弁栄聖者」を用いております。 【三昧】心が統一的に働く精神状態。原語はサマーディ「定(じょう)」とも訳される。三昧には種々あるが、光明主義では無 数の三昧のうちから念仏・念弥陀三昧のみを選んで修する。 【観仏三昧】まず〈持戒堅固〉にして定心(じょうしん)を得るための修行として三味心を養成し、その三昧心で如来様の聖容 をひとつ一つ〈思惟〉し遂に浄土の生きた如来様にお遇いする正受三昧に至る。 【念仏三昧】散心(さんじん)のまま、如来様のご相好を総相として憶いあげお慕いするうち憶念出来るようになり三昧正受に 至る。それで観仏三昧とはその限りにおいては始別同終と言われる。 時空の框を超えた(出世間の)心の眼が開けなければ、仏法は本当には分からないが、そのためには如来様を常にお慕い しての常憶念とこの三昧の念仏が必要。弁栄聖者は〈感謝の念仏〉・〈請求(しょうぐ) の念仏〉に対して〈三昧の念仏〉 をお説き下さった。光明主義ではこの〈三昧の念仏〉を修する。 【打ち込み式の念仏】称名しつつ木魚を打って念仏するとき、ナムのナ・アミのア・ダブのダにそれぞれ合わせて木魚を打 つやり方。浄土宗で一般的なあと打ち(シンコペーション)に対して、弁栄聖者は三昧に入り易いようこの打ち込み式念 仏をご指導下さった。光明会ではこの打ち込み式で木魚を打って念仏する。 【正しい三昧】如来様の事実を正しく認識できる三昧。正しくない三昧、無価値な三昧も多く成仏を目的とし心に慈悲の聖 容を想いお慕い申して念仏するのが正しい三昧に入る即ち〈成仏の直線道〉。 【大乗仏陀釈迦の三昧】聖者により認識的一切智である事が明らかにされた釈尊の境涯 *中道の項参照 【見仏三昧】いつもいつも如来様に想像でなく実際にお会いしていること。浄土宗二祖鎮西上人はこれを不離仏知遇仏とし た。(徹選択集) 【三昧発得】従来は念佛七覚支の内、喜覚支の処あたりで三昧発得とされて来た。未だ仏眼には達していないそこを光明主 義では三昧発得と言わず少なくとも定覚支、厳密には念覚支の処まで来てようやく三昧発得したと言えるとされており 最終到達点が高くしかも明確なだけにより厳しい。三昧正受に同じ 【三昧仏】雲上に如来様の上半身を描き、念弥陀三昧を修する時の心本尊という意味で弁栄聖者により三昧仏と名づけられ たお絵像のこと 聖者は狭義見仏所期の憶念の念仏に入り易いようにとこれを描き広くお弟子や信者に与えて下さっ た。光明主義の念仏には必須。*四修の項参照 尚、三昧仏と言う言葉は華厳経の中に見えるが、意味が聖者のそれと は異なる。 【無生忍(むしょうにん)と無生法忍(むしょうぼうにん)】光明主義では《無生忍》は仏眼の悟の位を実現した法身との形式的合一 を言い、《無生法忍》は仏眼の入の位を実現した法身との内容的合一を言う。それぞれ従来の通仏教のと違うので注意 が必要 本文の 開・示・悟・入の項を参照のこと 【如来蔵性】従来は円成実性の真実在である体大法身を大宇宙の心霊と自然の一切の差別の現象の根源として、法身如来蔵 性を説き、この立場で平等即差別を見る。これに対して光明主義では法身の中心である絶対の報身の独立自存する大宇 宙の全一の円成実性の妙色相好身を大宇宙の心霊と自然の相対因縁因果の一切の差別の根源として報身如来蔵性を説 く。この大宇宙全一の円成実性の妙色相好身の一切の規定条件を離れた絶対不変、無差別平等の面と大宇宙の相対因縁 因果の無限の変化の差別の面で、平等即差別、真空即妙有を見るのが光明主義の固有の立場 (光明主義注解解説より) 【八風】自己の心の平和を乱し修行を妨げる八つのもの。風は動くことを意味する。その中の利(利得)は得意の時のこと で慢心・天狗を意味し、特に注意が必要。他に衰(損失)・毀(陰でそしる)・誉(陰でほめる)・称(面前でほめる)・ 譏(面前でそしる)・苦・楽 【驕慢】驕は偉ぶること、慢は他を蔑むこと。いずれも仏道修行の大敵とされ、退転の因となる。 【無明】如来様の属性である一切能が活動し、一切智の未だ顕現しない状態を指していう。古来より定説がなく難問とされ たが、無明に実体がないことを聖者が初めて明らかにして下さった。本文参照 【教相判釈】価値判断に基づいて仏教の教えを整理する為分類すること。仏教が中国へ伝わる時に経や論が雑然と紹介され た為、受け手側で教義構成上の理論付けがなされた。天台智顗の「五時八教」が有名 【聖者の教相判釈(教判)】 本尊観により分類して 一神教・汎神教・超在一神的汎神教 理性主義と感性主義 *理・感何れにも偏しない光明主義はその宗教意識において理感二性が統合される 解脱主義と救済主義 *光明主義は両者を統合した光明摂化主義 【円具教】円満具徳教の意 自然教や超自然教と違い、無明に覆われて迷妄な心を開いて本性を悟ればこの世で仏になれる と説く教えの総称 現在から永遠に通ずる理想と、これを実現する道を説く光明主義は完全円満な円具教でこれはまた 如来の全人格を憧憬し一挙にその全徳を得る道でもある。 【安心起行】目的に向かって心を定め、行を起こして実行すること 安心の三条件:所求(しょぐ)求めるもの・所帰(しょき)]帰命する本尊・[去行(こぎょう)] とそれを実現する方法 【安心起行の形式と起行の用心】安心起行の形式はこうすれば浄土へ行けるという道しるべ 起行の用心はその道中の一里 塚を順次目標として行く時の心構え・心の用い方 ※安心は形式・起行は内容 更に起行の形式は称名・内容は憶念。光明主義では起行の用心を重視する後出の【念仏の所期】参照 * 法然上人様の一枚起請文その他には安心起行の形式はあるが起行の用心がないというのが光明主の立場。起行の用心をご道詠の中に読み取る。 ** 光明主義の起行の用心は次の三条件 一、念仏の所期は見仏して聖嗣(およつぎ)となりたし 二、ミオヤの慈悲の聖容を念いお慕い申してナムアミダブツ 三、人格の完成に全力を注ぎ、ミオヤを徹底的にお慕い申して慈悲の聖容を見奉っているように 【弁栄聖者のご垂示】聖者が私どもにお示し下さった教えの要旨 【見仏】仏様を見奉ること 【広義の見仏】明相や宝地宝池宝楼などの極楽の依報荘厳を拝み、また永遠の生命や如来様のお慈悲を得ること 【狭義の見仏】三身即一の生きた如来様を拝み合一すること。経(観無量寿経)に「仏身を観る者は仏心を観」とあるように 単に如来様の御姿を見奉ることでなく、御姿を見奉るときに如来様の完全円満な万(よろず)の御徳=万徳を自分のも のとさせて頂くこと 【妙色相好身(みょうしきそうごうしん)】 相とはだいたい形、好とはその形の中に備わった部分部分を言い、如来様の妙色相好 身に如来様の万徳があらわれている。(万徳の精粋) 【般舟三昧経】サンスクリットの原語からすると「仏立現前三昧経」の意 浄土門はそもそもその始まりから見仏があった。 【憶念】 如来様をただ記憶するのではなくお慕い申しお念じすること 【五根五力の修行法と前方便の素養】五根五力のうちは、如来様が今現に真正面に在しますものと信じて、慈悲の聖容を想 いあげつつ称名する。心に如来様の慈悲の聖容が想い上げられる様になった所がその到達点で、これが七覚支の最初の 段階である択法覚支に入った時に必要とされるので前方便の素養と言う。本文参照 【四修(ししゅう)】法然上人様の『選択集』にあるこの四修を、金田昭教師は敬いの心をもって(恭敬修)、ただ阿弥陀仏の みを(無余修)、いつもどこでも絶え間なく念じ(無間修)、そしてそれら三つを常に心に留め生涯を貫いて相続する (長時修)修行であると見事に約め、弁栄上人は「常に念ずる」という中々困難な四修の実践を、私達にも勤め得る様に 「三昧仏」という尊像を染筆しているとされた。(聖者百回忌記念墨蹟仏画集より) 【行住坐臥】 歩いている時も、止まっている時も、起きている時も、寝ている時もという意味 【阿弥陀如来・阿弥陀仏】 光明主義では、西方浄土に在します従来の所謂阿弥陀如来様でなく、三身即一の在さざる所な き阿弥陀如来様を指していう。言い換えると無限の大宇宙を身とし心とし給うお方で、一切の諸仏諸菩薩あらゆる神々 及び私ども一切衆生の本元の親様であり諸仏を統摂し一切万行の帰趣する所のお方即ち独尊統摂帰趣に在しますお方。 「法身報身応身の三身即一に在します最も尊き唯一の如来よ」とお呼びするのは親様であられる如来様のお徳の表明 【人間の三性】 天性:自己保全と自己発展を求める欲望 動物共通性 理性:大脳皮質の働き 人間特有性 霊性:神人合一性 【信仰の三種】 仰信(こうしん):問信ともいい、善知識に会い素直に信ずる事ができた信仰をいう 解信(げしん):大いに疑い、大いに考えた結果理屈の上から信じられて入った信仰をいう 証信(しょうしん):仰信解信が得られた後、精進して心霊更生し証拠を握って確立した信仰 【菩提心】菩提即ち霊的人格・如来様の積極的お光明を求める心 霊的人格とは小我(肉我)を根底とする通常の社会的人格ではなく、大宇宙を身とし心とする不生不滅の大我を根底と する。また人格の完成とは無余即無住処涅槃の境涯に入った自己実現の究極をいう
弁栄上人は二十一歳で浄土宗の僧侶となられて以来その僧籍をお持ちでしたので、五十歳を過ぎて《光明主義》として新しい法門を開かれたとき、所謂伝統的宗乗との関係が問題視される所となりました。ご自身で宗教革命という言葉を使っておられる位ですので異安心ではないかと見られた訳です。これに対し上人は「自分の主義は活きた法然上人の意思をつぎて・・・」と書簡にもあるとおり、善導大師・法然上人の真精神を説き明かすとの一貫した態度で臨まれました。大正五年六月、夏安居併修の知恩院における高等講習会でまとまったお話があり、「宗祖の皮髄」としてのちにまとめられたのがその講演の記録です。 具体的には、先ず浄土門において従来西方浄土に在しまして諸仏の中の一仏とされてきた阿弥陀如来について阿弥陀仏は在さざるところなき諸仏を超越した存在であるとされました。光明主義が〈超在一神的汎神教〉たる所以です。これは従来汎神教であると見做されてきた仏教の理解に一石を投ずるものですが、上人は無量寿経の中の歎徳章に「無量寿仏威神光明最尊第一にして諸仏の光明及ぶ事能わず」とある一節を取り上げこれを以って「独尊の証」としておられます。それは、ご自身の三昧体験に符合するからですが、弁栄上人は「自分は経論によって演繹的に説くのではなく、自らの三昧体験から帰納的に説く」としておられ、ここではご自 身の内証から得られた事実に符合するところを経典の中に見出しておられるのです。ですから同じ様に南無阿 弥陀仏とお称えしておりましても、光明主義では従来のそれとは帰命する対象を異にします。 次に法蔵菩薩が五刧に思惟を巡らして願を立て万行を積み その願を成就した結果、衆生が念仏により死後往生出来るとする経典に準拠した従来の所謂 酬因感果の説き方に対して、弁栄上人はこれが仏教の原則である「自作自受」の法則から外れた「他作自受」の構造になっている点を指摘してこれを法蔵菩薩の神話と言う風に表現された。そして衆生が直接帰依すべき本有無作の根本仏を念ずることによって三身四智の身となるつまりは成仏出来るとの立場から、極楽往生についても往生は空間の移動ではなく状態の変化であってそれは死後に限ったことではなく生きているうちから精神の更生つまり〈往生〉が出来るという風に説き直されました。 更に法然上人様が口称念仏を強調された当時の時代背景、不安定な世情と観仏三昧が盛んで(混同を避ける必要性の)あった状況を踏まえ、従来の称名に傾いた形で伝承された鎮西流請求の念仏や真宗の感謝の念仏でなく、法然上人様も実践なさった『三昧の念仏』が必要である つまりは即今当念の念仏三昧を通して如来様にお会いする事が肝要であると《見仏》の重要性を明らかにしつつご自身の体験に基づき今に活きる念仏の仕方を説き明かされた訳です。 光明主義の念仏は、その手立てとして三昧に入りやすいよう立体的な木像・鋳造の像などに替えてあえて平面的に雲上の如来上半身像を描き、〔三昧仏〕と名付けて上人が信者達にお与え下さったお絵像を前に、色を壊すことなくその慈悲の御顔に表れる全御徳をお慕いしお念じ申して南無(ナム)・阿弥(アミ)・陀仏(ダブ)と頭打ち三拍子の打ち込み式で木魚を叩いてする念仏をその特徴とします。 ここで弁栄上人が行住坐臥常に絶やすなと仰った〈憶念〉とは単に如来様の慈悲の面を記憶するのではな くお慕いしつつお念じ申す事。注目点は、この我々が正しく念仏の行を修する時の心構え即ち【起行の用心】 を従来の「安心起行の形式」と分けてお説き下さった所です。これはお弟子の笹本戒浄師が「いつの間にか忘れ去られた本来の伝統宗乗である〈見仏義〉を掘り起こして、過去数百年来の宗乗学上の一大疑念雲を見事に晴らして下さった」と感嘆なさっておられる 光明主義にとって極めて重要な所です。 ここで言うお慕いすると言うのは感情ですが、弁栄上人は「宗教の真髄は感情である」として信より入った信仰の深まりに宗教的情操が特に重要であるとされました。そして『霊恋』(霊的恋愛)と言う仏教の用語としては珍しい言葉を使いつつ、法然上人の到達された境涯を窺い知ることの出来る最晩年のご道詠の中から「かりそめの 色のゆかりの恋にだに あうには身をも惜しみやはする」を異性への恋慕の情の如き表現の一つとして取り上げておられます。ご自身が作られた光明会の為の独自の勤行式「如来光明礼拝儀」は漢文でなく和文で書かれており分かりやすく、より親しみやすいものですが、要は如来様をお慕いしお念じし、片時もお離れ申さないこと これが信仰生活における大変大切なポイントであると言えるのです。 所で仏道と言うのは、本来お釈迦様が二千五百年前に発見しお示し下さった仏になる成仏への道です。成仏には見仏が、見仏には三昧に入る事が必要であり、そしてこの三昧つまり「定」は基本的には仏教に必須の要素である訳ですが、弁栄上人はこの三昧の深まりつまりは成仏への道行きをご自身の体験に基づき念仏七科三 十七道品として示されました。これは原始仏典に見られる修行法を組み入れたもので、光明会でしばしば言及される〈五根〉(第四科)・〈五力〉(第五科)・〈七覚支〉(第六科)・〈八正道〉(第七科)はその後半の部分です。 一般に肉眼以外の認識機能を認めない人達が大多数である中、光明主義では[五眼] 即ち仏教で言う認識機 能〈肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼〉を基本的概念とします。弁栄上人は「五眼」のそれぞれについて具体的かつ明瞭にお示し下さいましたが、特に仏眼の四位 開・示・悟・入 についての言及、とりわけ最高位の入の位・三身四智の仏眼についてのそれは今までにないものです。仏眼の悟の位の〈無生忍〉 は法身の平等の理法が認識できた広義法身との「形式的合一」であるのに対して、最高位〈入〉の位である《無生法忍》は報身の差別の理法が認識できた所で、悟の位では合一できなかった法身の最深の面との「内容的合一」である。これは悟の境界と入の境界の間に存する仏道修行上の最難関を突破して初めて説き得る内容です。 さて《光明主義》と言う名称の由来でもあり、弁栄上人ご自身が如来様より与えられた宝鑰(宝蔵の鍵)としておられる《阿弥陀如来の要素である十二光仏による教説》は光明〈摂化〉主義の主要な特徴の一つです。上人は「この鍵無しには衆生は如来の秘蔵を開いて甚深の内容を窺う事が出来ないけれども未だかつてそれを知る人師なく宝の持ち腐れであった」としておられ、如来様の命を奉じてこの十二光〈名〉による布教が始められる事によって新しい法門としての《光明主義》が、形成されました。高弟田中木叉師は、収集したご遺稿のうち十二光仏それぞれに関するご遺稿を整理編集し、光明大系として出版なさいました。十二光を要約すると 無量光・無辺光・無碍光の三光は宇宙に充満する体相用の三大 (光明原理)、 無対光・炎王光は個々についての心理論(光明摂理)、清浄・歓喜・智慧・不断の四光は衆生を霊化する妙用 (宗教心理)、難思光・無称光・超日月光はそれぞれ信心喚起位・開発位・体現位(宗教倫理)であるとされ、前述の無生法忍はこの八正道:超日月光に相当す る事が明かされております。 さらに従来妙有より深いとされた真空の認識に対し、仏身論上のコペルニクス的転回とも言える見解を以 て真相即ち中道の真の意味を明らかにし、如來の三身とされる法身・報身・応身の中の報身でなく法身の粋、法身の中心たる根本仏としての「広義報身」に我々が帰依すべきと信仰の要諦をお示し下さった点が重要であることは言うまでもありません。総じてお経の洪水と難解な議論のジャングルの中から、途中で信念の変更をすることなく成仏の中心道を真っ直ぐに歩むのに必要なものだけをご自身の三昧体験に照らして選んでおられそれらが現代の言葉で語られたことの意義は はかり知れません。弁栄上人によって初めて明かされたことが多いからです。 弁栄上人は膨大なご文章を書き遺されましたが、その中には寸暇を惜しんでお弟子や信者達に送られた たくさんのお便りが含まれており、御旨にかなう心を心として生きよと繰り返し繰り返し伝えようとしておられるのが分かります。最後のお言葉も「如來の在しますことを衆生は知らない・・・それを知らせにきたのが弁栄である・・・」と言うものでした。これの意味する所は自我観念に縛られて生きる私達に、如来の御旨に随順して生きる生き方のある事を示すもの、さらにはそれが御許へ帰っていく道であり人生の帰趣する所であるという事を示す為に骨身を削って下さった・・・ときに難解かつ対機説法を含む内容多岐にわたるご文章を拝読するの は中々容易ではありませんが、現代の釈尊とまで言われた聖者弁栄上人のこれ程の教えを埋もれさせてはな らないと言うのが、その教えに出会った者の共通の思いなのです。 |
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