NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
[29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37]
布教という側面から見ますと宗教は存外、時代の影響を受けるものと思われます。キリスト教において「肉の復活」が強調されているように見えるのも当時出回った仮現論を積極的に封ぜんとする力が働いたものと考えられますし、法然上人様の時代いわゆる「但信口称」の念仏が強調されたのも「念仏三昧」が「観仏三昧」と混同されるのを避けんとする意図が強く働いたものと聞き及んでおります。弁栄聖者は伝道に明け暮れなさる中で膨大な書き物をお遺し下さり善導大師・法然上人様の真精神を現代に蘇らせて下さったのですが、その意義つまり普遍的な内容を『光明主義』として今の時代に適した新しい革袋に入れた形でお示し下さったことの意義は語り尽くせません。そしてその事を真に理解し私共に正しく分かり易くお伝え下さった笹本戒浄上人様の法話集が今のような形で私共の手許になければ聖者のご遺稿も宝の持ち腐れになりかねない所でした。ホームページでも一部ご紹介致しておりますが、聖者のご遺稿は「弁栄聖者光明体系」に戒浄上人様のご法話は「笹本戒浄上人全集(全3巻・別巻1)」(何れも光明会本部 〒659-0011芦屋市六麓荘町20-20 TEL0797-22-4901 でお取り扱い)にまとめられております。
大乗非仏説というのは「大乗仏教が拠り所とする大乗諸経典はお釈迦様がお説きになったものではない。故に仏説ではなく後代の創作である。」と言うもので今や学者の方々の経文研究におけるスタンダードとなっていると伺いました。しかしお釈迦様が直接お説きになったものでないというのは実はあまり重大なことではなく、弁栄聖者も「飲んで効く薬(成仏に益す)ならば何でもよい。自分も大乗非仏説と思う。」とまでおっしゃっておられます。だた大乗経典というのは概して《三昧定中》において説かれているというのは押さえておかなければならない重要なポイントです。彼の華厳教は華厳三昧定中の、法華経は法華三昧定中の、また浄土教の根本経典は弥陀三昧定中における事実がそのまま説かれている所があり、三昧によらなければ自証できないという性格を持っているのです。その事は現在あまり広く知られていないかも知れませんが、弁栄聖者や笹本戒浄上人様がご自身の三昧体験上の事実とお経に書かれている事が見事に符合すると細部にわたってご指摘下さっている事は注目されてしかるべきと存じます。
跡見学園創立者の跡見花蹊女史も光明主義のお念仏をなさった方です。弁栄聖者の指導を受けた方に「一切諸仏の根本仏は弥陀独りであらせられ、経文(般舟三昧経)に一切諸仏は弥陀三昧によって正覚を成ぜられた説かれてある。故にその方のお育てを頂かねばならない。」旨お聞きになり、いかにもそうだと思われた女史は戒浄上人様のお導きにより熱心にお念仏する身となられました。そして大正12年8月27日の朝方ついに尊く大きい(阿弥陀)如来様のご相好を拝まれ次のお歌をお詠みになりました。『いともいとも大いなるかな天地に みち足らひたる大みすがたの』 お歌の師匠であった佐々木信綱先生はこれは信仰の歌であるから手を入れないでおくとおっしゃられたことが伝わっております。女史はしっかりとした強い女性でいらっしゃいましたが、念仏されてからは和やかかつ円満になられ、教育にお念仏を取り入れられたと聞き及んでおります。弁栄聖者が制定された光明会の勤行式を「如来光明礼拝儀」と申しますが、書をよくされた花蹊女史最晩年の御筆によるそれ(礼拝儀)は美しくいかにも慈愛溢れるものでございます。
昨年(2008年)103歳の天寿を全うされた日本画家片岡球子は1975年の第60回院展に『面構(つらがまえ)』という題のシリーズ作品のうち「山崎弁栄上人と狛則承(こまののりつぐ)楽人」という副題がついている作品を出品しておられます。実は片岡球子は(弁栄聖者のお弟子の)笹本戒浄上人様に直接お念仏の指導を受けられた方です。戒浄上人全集に寄せられた「笹本戒浄上人様の思い出」という一文によりますと昭和年春戒浄上人様に初めてお会いになったとき、御身体全体から美しい光が輝き出、その尊さに思わず合掌。かつ慈愛のこもった丁寧な物腰には頭をたれてお慕い申さずにはいられなかったと。そのお上人様が「弁栄聖者が私にこうお教え下さいましたから、私もしかとそう信じております」とかた時も弁栄聖者の面影をお忘れ遊ばさぬご様子で聖者のお話になると涙で胸がつまっておしまいになるのを拝すたびに尊く思われた由。聖者にはお目にかかっていらっしゃらないのですが、後年どうしても聖者を現代の聖者として書き残そうと決心した片岡球子は資料集めをし関係先の助力を得て作品を完成なさいました。テーマは、聖者が音楽を布教に広く取り入れ作曲された中に雅楽もあったことをヒントになさったそうで作品は薬師堂開眼供養の導師をつとめられたある日の聖者が火炎太鼓を背景にして狛則承楽人とともに屏風に描かれたものとなっています。片岡球子:面構シリーズのうち同作品は神奈川県立近代美術館所蔵。
九州は光明主義のお念仏の盛んな所ですが、筑前に出られた荒巻くめ女という方の事はご紹介しておきたいと存じます。この方は弁栄聖者とほぼ同時代を生きた方ですが、聖者の済度を頂かれた全国の多くの妙好人の中でも傑出しておられるものと思われます。日頃の朝夕の日課念仏から始め「憶いの珠」と聞かされたお数珠に仏を憶って一心にお念仏するうちしだいに熱が入っていったのですが、大正6年(65歳の時)聖者のご指導を受けられるようになってよりは弥陀千日詣りの大願をおこす等、念仏精進の思いがさらに昂じていったといいます。如来様憶いの念仏に明け暮れるくめ女は時に露地にゴザを敷き、時に木の根元に俵を敷いて一心不乱に念仏。ご近所で「近頃幽霊が出るそうだ」と噂になったその主が、未だ夜が明けきらぬうちから白い布を被って千日詣りするくめ女その人だったというエピソードも残っています。そうこうする中、いつしか念仏ばあさんとして有名になったくめ女は子供達にも親しまれ周囲の人々を導く傍ら、単身御手洗ケ滝の渓谷岩洞等へ度々参籠しての精進は度を増し、大正9年聖者のなくなられた後も人知れず心境を深めていったものと見えてその心境を偲ばせる多くのお歌とエピソードが遺されています。その純粋なひた向きさには何処となく徳本行者を思わせるものがありますが拙い字で「徳本上人おん歌よみのこと」として徳本行者のお歌の抜き書きも遺されているそうです。


カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R