NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
経に「仏身を観る者は亦仏心を見る。仏心とは大慈悲是なり。」とある如く、愛の権化である仏の相好を仰ぎ見る時満腔の慈愛にうたれて仏心の大慈悲なることを思い、如来を憶念せざるを得ないと弁栄聖者は述べておられます。そしてこの如来様の大慈悲に感応する人の心を心理上最も優美・高尚・微妙・甚深という他ない不可思議的感情であると。信仰における情の大切さを繰り返し繰り返しお説きになった聖者はまた初めは子が母を愛慕するが如くであるものが成長して異性を要求するが如きに到ると、『霊恋』というたいへん独創的な言葉を使って宗教的心情のひいては信仰の深まりを表現なさいました。そして宗教の中心真髄は如来様と衆生の不可思議的神秘の融合にあるとして大正5年「宗祖の皮髄」という題のもと京都知恩院勢至堂における高等講習会で行われたご講演でも法然上人様のご道詠「かりそめの 色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはする」を引いて異性を恋愛する程に霊を愛恋することあらば必ず神秘融合・神人合一が実現するとお説きになっておられます。
往生という言葉も日常使われる事がございますが、従来は命終わって他の世界に生まれることを意味し、阿弥陀如来の浄土信仰が盛んになるにつれ専ら西方極楽浄土への往生の意で用いられるようになったようです。この場合往生とは普通は空間の移動をイメージしています。しかし我が国初の梵語研究で知られる萩原雲来博士(1869~1973)によれば、往生がもともと梵語プラティヤジャーティーの訳であることから再生と訳すほうが適訳であり、原語から見ると往生は場所の変化(空間の移動)にあらずして状態の変化であると。聖者はそこの所を「往生即ち更正なり。」と表現なさいました。そしてこれを精神的更正と身体的更正にお分けになった上で、精神的更正を果たした状態を有余涅槃(うよねはん)、その更正した精神が方便土(この世)のつとめを全うし終えた所を無余涅槃(むよねはん)とお教え下さいました。この有余涅槃・無余涅槃共に光明主義では最高度の仏眼即ち三身四智の仏眼を得て涅槃に入った状態を申しますが、さらに聖者はご自身の三昧体験から『無余即無住処涅槃(むよそくむじゅうしょねはん)』の境涯の真相を「生死に住せず涅槃に任せず、永恒常住に、一方には涅槃界に安住してまた一面には生死界に分身応化して衆生済度する」と初めて正しくご教示下さったとも私共は承っております。
弁栄聖者は私達の心が如来様の光に満たされる様子を炭と火に喩えておいでになります。即ち私達の煩悩の炭に弥陀大悲の火が燃えつく時は心の色が一変して紅蓮華の如くになる。経に、「念仏する者は・・・最も美しき蓮華」と誉め給うのも「この光に遇う者は三垢(く)消滅し歓喜勇躍して善心生ぜん」とあるのもこのことと。煩悩の炭があるからこそ如来様のお慈悲が燃えついて如来様の恩寵を現す器となりうるのであって、口に称名(なむあみだぶつ)を唱えるのはあたかも火吹き筒で酸素を送り込むようなもの。仏念(おも)いの心を煽り立てる為であると。この喩えにはもう一つお諭しがあって、炭に火種を付けたり離したりしていてはいつまで経っても燃え付かない、じっと付けていなくては燃え付かないというのです。「不離仏知遇仏」「唯除睡時常憶念」と言われ、又「夜な夜な仏(みおや)と共に寝 朝な朝なも共に起き立ち居起き臥し添いましてしばしも離るることぞなき」と聖者のお歌にあるのもこのことで実はこの常に常にという事が信仰上非常に重要なポイントである事がうかがえます。
私達は普段何気なく『念仏』と申しますが、「念仏とは仏と離れないこと、弥陀尊を常に念頭に置いて離れぬを念仏と言う」と弁栄聖者はおっしゃっておられます。より端的には如来様の慈悲の御顔を常に憶念し、行住坐臥 如来様が胸臆(むねのうち)を往来して離れないという事。この模範を示されたのが観音様で、観世音菩薩様の御像が御頭(おつむり)に必ず阿弥陀如来様を頂いて在すのはその意味の表現であると私共は承っております。聖者は観世音菩薩様のように念頭に常に弥陀が離れずその胸の中は常に弥陀の慈悲に満たされる時は誰でも大なり小なり観音となるとして、観(無量寿)経より「如来は是れ法界身(ほっかいしん)にて一切衆生の心想の中に入り給う」との一節をお示し下さいました。また如来様は何れの所にも在さざる所なき霊体にて色心不二であり、一面より見れば大智慧の光明遍く照り渡り、また一面より見れば何とも言われぬ麗しき妙色相好身として現れ給うのを経にも「衆生信水澄む時は仏日の影映る」とあると。さらに「衆生一心に仏を念ずれば仏心が我が心に入り給う。我が心は仏心の中にあり。衆生心と仏心とが融合して三昧の妙境に入る。」と念仏三昧というものの本質について述べておられます。
「如来はいつも在ますけれど・・・衆生は知らない。それを知らせに来たのが弁栄である。」これが私共に遺された弁栄聖者の最大かつ最後のメッセージ。非常に簡単に言ってしまうと如来様モードで生きるよう繰り返し繰り返し説いておられるように見えます。しかも私共は「聖者は今まで如来様の真相を知り得ず、従って何のために生まれてきたのかも分からないままこの世界に放り出されていた私達に、如来様が如何に在すか、即ち独尊統摂帰趣に在して、一切の根本仏であると同時に一切に超絶し給う唯一の存在であらせ給う旨を根本から説き明かした上でその御旨に随順する生き方をお示しになって下さったのである」と承っており、確かに聖者には壮大な宇宙意識の理を説いた殆どロマンティックとも言える次のような意味の御遺文がございます。『地球の発展は生命の現化発展を目的とし、生命の発展は意識の現化発展(発現)を目的とし、意識の発展は心霊の現化を目的とし、心霊の発展は世界の目的。世界は心霊を実現し宇宙と致一(合一)せしめる事をその終局目的とする。』これが仏教が単なる人生論ではなく世界観と連動した人生観を提示していると言える所以です。 |
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