NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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弁栄聖者や笹本戒浄上人様に念仏のご指導を受けられた方々の中に(在家にあっても)初歩の仏眼を開かれた方が複数おられることはすでにご紹介致しましたが、これは考えてみれば大変なことでありまして、聖者の御教えの卓越性の証ではなかろうかと思われます。最近読んだある本の中に日本に伝わった仏教は大乗仏教であるけれども、そもそも大乗(北伝)仏教がもともとの仏教から分かれた時にお釈迦様がお説きになった成仏の為の修行法が抜け落ちてしまったとあり、それが原始経典の中にある七科三十七道品であると書いてございました。聖者が広島において高弟の方達の為になさいました最後のご講話のテーマもこの三十七道品であり、私共はつたないながらもこの道行きに従ってお念仏をさせて頂くご指導を受けている訳です。加えて聖者は誠に興味深いことをおっしゃっておいでになります。それは三十七道品の科目の中身も名義も知らずとも一心に念仏して三昧発得したある老女がお悟りの奥堂に達して、その心理状態においては一々その道品と合致して全く違わないという内容で以下の通りです。『・・・美濃国に一人の老尼あり、道心堅固にして念仏勇猛にして三昧発得す。その老尼に覚支(念仏7覚支)の心理状態を説示するに、一々その心相と相応して違わず一々肯定して実に然りとす。云々』(聖者のご遺稿集のうち 無称光・三十七道品に収録
先頃中国で発見されたという 円仁の名の刻まれた石版が(真贋を含めて)話題を呼んでいるようです。円仁(A.D.794~864)は下野の出で、3年前栃木県立博物館で大規模な「慈覚大師円仁とその名宝」展が催された際には、山寺の立石寺から特別に言わば里帰りしたお木頭や国宝『入唐求法巡礼記写本』etc.が展示されました。この巡礼記は当時の唐の貴重な資料としても評価の高いものですが、その求法への熱き情念に心動かされます。円仁は最後の遣唐使船で帰国の際、多くの仏具、漢籍とともに念仏(声明)を持ち帰り比叡山に伝えられたのですが、後年法然上人様が叡山の書庫で出会われる善導大師の観経疏もこのようにして海を渡ってきたことへ思いをはせました。
奈良の都で栄えた南都六宗といわれる鎮護国家を目的とした教学仏教の一つ華厳宗に平安末期、明恵上人(1173~1232)という高僧が出られます。この方には色々なエピソードがありますが、晩年京都栂尾高山寺に半ば隠棲して修行に励まれました。この明恵上人の有名な著作『摧邪輪(ざいじゃりん)』というのは誤った教えを砕くという意味だそうです。明恵上人はもともと法然上人様のことをたいそう尊敬しその人柄を慕っておられたのですが、上人様亡き後、遺された『選択本願念仏集』を読んで驚き、その時広まりつつあった専修念仏を弾劾せんとしてこの書をお書きになったとのこと。明恵上人には法然上人様のお説きになった念仏の教えが「菩提心」を否定するとんでもない教えと映ったものと思われます。明恵上人にしてみれば無理からぬことであったと思われますが、法然上人様の真精神を弁栄聖者を通じて承っている私どもには法然上人様の真意が決して菩提心の否定にあったのではないことが分かります。それは法然上人様は最晩年に最高位の仏眼(三身四智の仏眼)を開いておられたけれどもその境涯を明かすのが困難であったことを弁栄聖者が三昧直観なさっているからで、ここは光明主義にとっても大切なポイントです。因みに修行一途の明恵上人は釈尊を通じて天竺に憧れ、二度までもその地に渡ろうとして果たせませんでした。それから七百年後、同じく釈尊への強い憧れを抱いた弁栄聖者がインドへの仏跡参拝を果たされたことを思う時、何故か明恵上人のことが偲ばれます。
*菩提心:仏陀の境地を求めて仏道を行じようとする心のこと

「往生」は空間の移動ではなく状態の変化であると聖者はお示し下さいました。華厳経に人の心を巧みな絵描き師の画く様々な姿にたとえた一節があるそうですが、習慣的意志活動が作った業(ごう)が熟すことにより定まる心の世界を十種に分けた『一心十界』を聖者が絵にしたり頌を作ったりしておられます。地獄・餓鬼・畜生の三悪道 修羅・人間・天上の三善道 合わせて六の世界を六道といい「六道輪廻」と言うのはこの六の世界に生まれ変わり死に変わりする事を申します。その上に声聞・縁覚・菩薩・仏陀の四聖 があり死なない命を悟る事のできた生まれ変わり死に変わりしない世界があるとされます。
   
禅の方では大我即ち永遠の生命に目覚めることを「性(しょう)」を見るという意味で「見性(けんしょう)」と言います。座禅(特に臨済禅)はこの見性を目指すと伺っておりますが、お釈迦様から連綿と続く法灯を正しく受け継いでいる、つまり正式な印可を受けておいでになる指導者について修行しなければ極めて危険なのだそうです。岡田担雪(たんせつ1915~1994)という師家は安谷老師から印可を受け長らく在家の指導にあたられましたが、安谷老師は正信論争で有名な原田祖岳に印可を受けた方ですので原田老師からすれば孫弟子にあたる訳です。申し分のない程に正統な法灯を受け継いだ指導者として岡田先生は接心(座禅会)に心血を注がれ、結果として光明会と同じように在家において多くの見性者を出し育てられました。正信論争につきましては別の機会のお話と致しとう存じますが、「見性」と言われていることが定心つまりは心の眼の一種であるところの「慧眼」を開くことに相当することと合わせてその内容が曖昧に扱われたり軽んぜられたりすることがあるとすれば誠に残念に思えます。


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