NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
横浜・慶運寺での月例念仏会へお見えになる方から最近一冊のご本を頂きました。岐阜・法城寺ご住職のご法話の筆録で題は「今、生かされて ありがとう」副題が 〈弁栄上人と井村和清医師〉となっており、この井村医師と言うのはベストセラーになった『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社1980年)の著者。病を得て31歳という若さで逝かれた青年医師がお嬢様達に遺されたこの作品は映画化されテレビドラマにもなったのでご存じの方も少なからずおられるのでは存じますが、その中で生涯に感銘を受けた本として5冊挙げられたうちの一冊が弁栄聖者の「無辺光』だと言うことを、私は今回頂いたご本で初めて知りました。亡くなる半年くらい前に出会われたのですが「宇宙の真理について静かに語りかけてくれる本」であるとして棺に入れて欲しいと望まれ、望みどおり「無辺光」を胸に旅立たれたそうです。「無辺光」は、宇宙の真相(真理)がそれを如実に観る眼(三身四智の仏眼)を持った聖者によって説き明かされている希有のご遺稿集の一つですが、この青年医師のエピソードにもあらためて深く静かな感動を覚えました。
三昧に無数の三昧があり、千里眼や催眠術にかかった状態も三昧の一種である事はすでにお話致しました。私共は成仏に必要な三昧を修するのであって、三昧であれば何でもよいと言うのではない事は申すまでもありません。所で無着(インド名アサンガ)という方のご本『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』に、 成就すると成仏出来るとされている行を成就しても実際には成仏出来ない。成仏と言うのは一切の行を成就しないとならないからと書いてあるのだそうです。そうすると、一つの行を成就する度に信念を変更して別の行を修する事を限りなく繰り返さなくてはいけない事になり事実上成仏は不可能のように思えます。そこの所を弁栄聖者がはっきりと成仏に王道あり。念弥陀三昧(念仏三昧)が王三昧すなわち成仏の王道であるとお示し下さったと言うのが私共の承っている所です。この弥陀とは西方浄土に在す阿弥陀如来様ではなく三身即一に在していと尊き唯一の(超在一神の)すなわち宇宙の中心に在す報身の如来である。この一切の根本仏に在す報身の阿弥陀如来様と合一する念弥陀三昧の一行を成就すれば一切行が成就すなわち成仏できる旨ご自身の三昧体験に基づいて明らかにして下さったのだと。これが光明主義のお念仏は最後まで信念の変更を必要としないと言われる意味でもあります。「・・・唯絶対無量光寿即ち弥陀の聖名(みな)を崇め聖意(みむね)を仰ぎ帰し奉りて、意(こころ)に至尊をのみ憶念し、口に聖名を称え、身に聖意の実現に行動すべし。一念の弥陀なれば一念の仏。念々弥陀なれば念々の仏。仏を念ずる外に仏に成る道なし。三世諸仏は念弥陀三昧によりて正覚を成ずと南無。」(弁栄聖者ご遺稿より抜粋)
従来の教えとの違いをはっきりさせることで光明主義の特徴が見えてくる面がございます。従来は、その昔法蔵菩薩が衆生を済度したいと五劫に思惟をこらし四十八願をたてその願を実現するため修行して阿弥陀仏となり給うたと無量寿経にあるのを典拠に、阿弥陀仏は「酬因感果(修行の因に報いて得られた果報)の御身」とされて来ました。従って「本願」も阿弥陀如来の前身たる法蔵菩薩が菩薩の位でたてられた本(もと)の願と言う意味でした。光明主義では(あまり本願という事を申しませんが)本願の本は根本という意味で如来様の根本の願いすなわち宇宙大霊に本然としてあり常劫に働いている衆生摂取の大勢力のことであるとします。そして何より阿弥陀如来は従来説かれてきたような十劫の昔法蔵菩薩が万行成就してなり給うた「酬因感果十劫正覚の御身」ではなく法性本仏本然常住の無量寿仏に在すと説かれます。法蔵菩薩のエピソードを弁栄聖者は善巧方便としての神話とされましたが、実はこのエピソードが他作自受の構造になっており自作自受の真相とあわないことからも方便であることがうかがえる訳です。
「般若心経」はよく知られたお経ですが、ベースとなる『空観』というのは、言葉による説明が困難である為独特の表現になっており分かったような分からないような印象を与えます。学者や僧侶方は自由な解釈を試み分かりやすく説明して下さいますが、私どもには般若諸経典の位置が気になります。どういう訳か「金剛般若経」の中に五眼(仏教で言う五つの認識機能)すなわち肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼が如来は全てを備えているという形でさらっと出てきており、実は光明主義ではこの五眼という事をうるさく申します。三昧という心の統一状態において働く認識機能すなわち心の眼(まなこ)によってのみ見える世界がある訳で、(三昧によって)自然界を観る天眼を別として、普通は念仏三昧の場合法眼(法界の妙有を観る眼)から先に開け、次に慧眼(真空を観る眼)が開けこれが融合状態となって最後に仏眼が開ける。つまり差別現象の面を観る法眼と無差別平等の面を観る慧眼と仏の境涯を観る仏眼はそういう関係にあります。マントラの持つ呪術性はともかく、基礎となっている「空観」を支える認識能力(境涯)については取り合えずそういう事になろうかと思います。
臨済宗中興の祖 白隠禅師(1687~1768)は、五百年に一度出るか出ないかの法器とされていますが、そのご内証の深さについて私どもが承っております所を少しご紹介させて頂こうと存じます。禅浄一致というような事が言われますが、実は禅宗が当面の目的としている慧眼の真理認識には限界があり、真相の空の側面(如来様の本来無相無識の側面)を観るに留まるのです。事実「仏に姿なく、無相無色である。」と信じ見性成仏を目指して座禅に励んだ結果慧眼が開けて見性すると仏は本来無一物・無東西・無相無色という所を観ることが出来ます。所がその先さらに一心に修行をしていくと如来様の光に照らされて自然に法眼が開けお姿(妙色相好身)を拝む・・・つまり「慧眼極まれば法眼開く」というのがあまり知られておりません。「白隠禅師も自ずから法眼開け、晩年念仏に帰せられました。空を見ること極まれば法眼開く。法眼極まれば大慈悲の聖容を明瞭に見奉る。だから禅宗では慧眼だけ開けているのは未(いま)だしと言える。」「ただし禅宗では自然に法眼が開けて、如来様の妙色身を見奉る白隠禅師様のような例は極めて稀で宗教的天才を要し、ましてやさらに進んで仏眼を得る方は実に稀である。」と私どもは弁栄聖者の直弟子笹本戒浄上人様より承っております。聖者が念仏修行により法眼から入って慧眼が開け仏眼に至るまで信念の変更を必要としない道筋をお示し下さった事の意義もここにあります。如来様は本来無相無色に在すと同時に本来人格的お姿に在す。これが如来様の事実である事を聖者は三身四智の仏眼をもってお示しになられたのです。
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