NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
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「仏教の悟りを開いても超能力が発揮できる訳ではなく、超能力などというものは存在しない。」と聞くことがあります。超能力を胡散臭いと見る向きは多く、実際うっかりすると騙されます。しかし超人的能力の存することは誰しも認める所でしょう。例えば千里眼はどうでしょう。これは超能力か超人的能力か。意外に広く知られていないのですが、仏教でいう〈五眼(ごげん)〉という認識能力の分類を知ると、千里眼はこの中の天眼に分類されるもので、インチキでも何でもないと分かります。因に五眼とは〈肉眼・天眼・法眼・慧眼・仏眼〉で成仏を目的とする仏道修行においては(成仏には必要ないとされる天眼を除いて)これを得ていくのが必要な道行きです。本来誰にでも備わっている能力を開発していく訳ですから、《最高位の仏眼》も超人的とは言えないかも知れませんが、そこまで到達するのは容易でない為、殆ど超人的超能力と表現してもよいのではと思われます。千里眼を含む全てのこうした(認識)能力を否定するなら、それは明らかな誤りと言えます。
仏教では「識」を前5識・第6識・第7識・第8識・第9識に分けて説明します。その内の第7番目 第7識 を《末那識》と言います。これについて触れられたご法話よりご紹介致します。「・・・《末那識》とは」自我観念です。一般に意根というのがこの《末那識》で、自分と自分でないものを区別するのがこの末那識です。これがクセ者でありまして、これが頑張っている為になかなか永遠の生命に気づきません。末那識は私どもが生きている間は大脳皮質と密接に結びついていてなかなか離れません。しかし死ぬとこの身体から抜け出るといいます。また死ななくともある種の修行をすると抜けで出る事があります。以前友と二人で伊豆において10日ばかり別時念仏をした時の事、ある日念仏を終わって私に話してくれたのですが、友人がその日一心に念仏していると自分が額のところからスーッと抜け出して高くなり低くなりしながら野や林や川や谷を超え色々な景色を眺め、又 来た所を通って額の所からスーッと入って元に戻ったと言うのです。あまりマザマザと見たので夢を見たとも思えず実際に行ってみた所、さっき見た時を少しも違わない景色をその目で確かめたと。このように末那識は死ななくともある特殊な精神統一をするとこの身体から抜け出る事があります。しかし死ねば身体から抜け出ると経文に書いてあります。」 以上 笹本戒浄上人 ご法話 「識について」を引用させて頂きました。要は、なかなか大我に目覚めることが出来ないのはこの末那識(自我観念)が頑張って邪魔だてしているから・・・とこういう事でなんですね。
経文を権威として信仰を得る事もはや能わず、信仰を失いかけた笹本戒浄がその苦悶から再び信仰を取り戻すまでをお明かし下さったご法話の一部をご紹介致します。三部経既に頼むに足らず、従来の信仰が断たれた上人様は、他に求める事をやめ心のどこかに不滅といえるところはないか・・・と事実と首っ引きでそのことばかり考え続けて11年目のある日の事です。「・・・部屋で書き物をしていた時、ふとペンの力の入っているところ、ペンのきしるところ、そこに永遠不滅の自己がある、そこに我々の心があるのだという事に気づきました。太陽が見えている、そこに我々の心があるのだと分かって来ました。ここに気づいてみると今までは心と名付ける事実を捉えずにただ心・・心と抽象的にのみ考え、心と言う言葉の持つ概念ばかり求めていたのだという《事実》に気づきました。忘れもしません。その後電車で東京の須田町の角を曲がった途端むこう一面が心の世界と見えました。前方に立ち並ぶ家々も路も人もすべて自己の心の中に認められるようになった事を知って大変嬉しかった事を覚えています。」その後瑜伽論(ゆがろん)第73巻などをひも解いた上人はこれが仏教で言うところの《真如》というべきところである事をお確かめになりました。
これは心の眼が開けて初めて見える「真相」の情景の一部を現代の言葉で表現して下さった貴重な証言でとしてご紹介した次第です。
             笹本戒浄上人法話「私の信仰が復活するまで」より抜粋
さて、何はともあれ・・・念仏三昧の修行最も急務にて候。無常迅速、念々に時光遷流(センル)して須臾も止まることなし。もし一日むなしく過ごさばまた再び会い難し。念仏三昧とは、口にもっぱら仏を称え、意(こころ)にもっぱら仏を念じ、念々常に弥陀を忘れず。弥陀はもとより常に衆生の前に在(まし)ませり。自ら未だ心眼開けずして之を観ること能わざるなり。衆生心水澄む時は、如来の霊月永えに感応せん。(中略) 一心に専ら念仏三昧によりて活ける真門に入るべし。これ汝が一大急務なり。弁栄聖者「お慈悲のたより」より抜粋  
仏眼の最高位である所の「三身四智の仏眼」に『観念的一切智』と『認識的一切智』の2段階があり、お釈迦様はこの最も深い『認識的一切智』の境涯に達しておられたとされます。所が宇宙の中心絶対の報身仏と合一して「認識的一切智」が得られても、この世においては肉体を持っているので(認識的一切智というのですから原理的には一切が認識出来るはずですが)実際にはそうではなく差別の現象の内容を規定する法則を認識するに留まると言うのです。そこで誤解を防ぐ為には認識的一切〈知〉という表現がよいとも(弁栄聖者のお弟子)笹本戒浄上人様はおっしゃっておられます。合わせて興味深いご指摘を一つ。三昧によって自分がこの世を去る時の有様を詳しく予知し、これを周囲に漏らしてその通りに亡くなっていかれる三昧行者がおられる事はこのブログでもご紹介して参りました。所が戒浄上人様は、その事自体に尊い価値がある訳ではなく、むしろ心が横道にそれた結果である故、なんとこれも雑念の三昧として排するようにというのです。有り難がるには及ばない訳なのですね。光明主義の水準の高さが伺えるご指摘です。


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