NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
光明主義文献刊行会による「光明主義玄談」巻4が刊行され全4巻が完結しました。これは弁栄聖者の一番弟子であった笹本戒浄上人とのやりとりを上人に師事した泉虎一氏が書きとめたもので光明会でいわば秘蔵されていましたので、これが刊行された事により光明主義がベールを脱いだ観がある程のものです。第4巻の見開きに笹本戒浄上人御筆のお名号が載せてあり、戒浄の署名の字がお名号にかかって書かれています。これについて上人様は「戒浄は如来様にひっついていないと危ういから」とおっしゃったと伝わっており、よくよく噛み締めたいお言葉です。
浄土宗等の体系と光明主義の体系とでは、宇宙最高位の絶対者、最尊の真実在である絶対の根本仏に関して根本的な相違があります。前者は絶対無差別平等無相無識の体大法身を、後者(光明主義)は法身の中心である、本より絶対真実円満な相好光明大霊力を完全に持つ三身即一本有無作の内的目的論的広義の報身を宇宙最高位の絶対者、大宇宙の中心、法身の粋である根本仏とするからです。善導大師・法然上人の教えとして伝わっている所に依拠する前者の立場に対して弁栄聖者はご自身の三昧体験をもとにしておられます。当時聖者が〈三身四智〉即ち最高位の仏眼によって見抜かれた《真相》をそのままはっきりとお説きになりますと本山(知恩院)がら異議異論が出て布教活動に支障をきたす恐れがありました。そこで聖者は本当の所を厳密明瞭にお説きになるあるいは書き残す事がお出来になりませんでした。それで玉石混交のご説法をなさったと言う事でございます。私たちはその中から真実説を見抜き選び取る力を養わなければならない訳です。参照:光明主義文献刊行会 弁栄聖者 光明主義玄談 巻四
周知の様に真理探究の方法としての「帰納法」はいくつかの把握された事実から一般的結論を導くもので、特に自然科学において重要な手段となっていますが、厳密に言うとそれは常に「不完全帰納」なのであって、「完全帰納」と言うものはありません。何故なら実際に把握される事例は必ず有限個であり、遂行可能な実験は必ず有限回数であるからです。光明主義において「完全帰納」が成立する理由について泉先生は「三身四智の仏眼(光明主義に言う無生法忍)が実現すると、諸仏中の一仏や根本仏の一面と(だけ)でなく、絶対中心の『一』と合一する故に、相対的一即一切が解消されて真の一即一切が成立する。ここにおいて初めて不完全帰納を脱する事が出来、有限回数の三昧体験が完全帰納となる」と説明されました。もう一つ、「内的目的論的」については講義中に次の様に説明されました。「最尊の仏(絶対者)が衆生を自己に帰せしめる目的で衆生を誘引する場合は内的目的論的活動。これに対して、最尊でない諸仏が衆生を最尊の仏(絶対者)に帰せしめる目的で衆生を誘引する場合、外的目的論的活動となります」と。以上弁栄聖者 光明主義玄談 四巻(最終巻)(光明主義文献刊行会)あとがきより抜粋
読書三昧とか放蕩三昧とかいうように使われる「三昧」という言葉ですが、三昧心とは統一的・集中的に働く心のことで、通常の(散乱する)心とは違います。※この三昧心というものが存外広く知られていないというのですが、これを抜きにして仏教は語れないというのが仏教を語る者の共通認識になっているか疑問です。弁栄聖者の光明主義は聖者が三昧直感された内容をもとに説かれているのですから、この三昧心を抜きに語れないのは勿論です。聖者が「自分は(経典から)演繹的に説くのでなく、(三昧体験から)帰納的に説くのである」とおっしゃておられる通りですが、ここは非常に重要なポイントと思われます。※
さて通常の心の働き方と違うこの三昧心ですが、特別に精神統一の修練をすると或いは催眠術にかかった場合にも非常に浅い状態で現れてきます。浅い深いの差はあるものの三昧心に共通している特徴は主観と客観が合して一つとなる点であり、茶碗となって茶碗を観るというような表現がなされるように見る私が見られる対象と一つになって対象を経験するというような特別かつ不思議な心の働き方があるというのです。通常不可知とされる神の領域に分け入るのには深い三昧心が必要であり、逆に深い三昧心をもってすれば神と三昧合一できそれを直観の事実として経験できると。語られることの少ない神秘体験ですが、このような三昧心なしには考えられません。
従来の仏教は宇宙大霊を一切の根底たる実体とし、真実在のものはこの実体としての法身真如だけだと思い、これが自己最深根底にある自性でもあるが故にこの自性を開発して大霊を自己の上に顕現できれば仏(三身具足の身)となると信じていました。自力門では自力で自性を開発し、他力門では報身法蔵菩薩の救済を仰いで西方浄土に救いとって頂きそこで法身大霊を悟らせて頂くというのです。ですのでいずれも宇宙大霊がもとより三身即一の超在一神の大みおやに在しますという事に少しも気づいておりません。法身大霊が内蔵する万徳の精粋として、宇宙一切の統一の中心として報身がもとより在します事実を全く知らなかったのであります。従って大霊に本来帰趣の理性がありその理法にのっとって本有報身の光摂を被らねばならない事が全く分かりませんでした。また大乗円具の頓教を標榜する禅宗・天台宗・華厳宗・真言宗に対し弁栄聖者は「これらは・・・内観理想に傾きて客観を疎んずるきらいあり」と評しておられます。自力で自己の内観を深め一切を自己内観の事実として悟るという方に傾いて、宇宙の中心に厳臨し給う報身が一切の衆生を摂し大霊に帰趣せしめんとしている事実に対する認識が欠けているのです。それで大慈悲の光明を仰ぎ帰趣の理法に随順しないため如何に高遠美妙の法門ではあっても「その法を修して正覚を得たものはいない」と仰っておられます。弁栄聖者が大乗仏陀釈迦の三昧に入って初めて仏教が円具の法門・超在一神的汎神教であるとその全貌を明らかになさった訳です。参照:能見寿作 光明主義入門
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