NINJATOOLSを利用して2009年6月11日設置
弁栄聖者は如来を不識的精神態とされました。不識的ということは、例えば如来様がバチを当てようとして当てるというようなことはないと言うことを意味します。如来様のお働きは法則に則って働きます。如来様が衆生をお救い下さるにあたっても、厳正な法則に則ってなされるのでその法則に随順していくことが大切となる訳です。信念の如何に関わらず如来様が私どもをお育て下さり仏へと導いて下さる訳ではないと言うことが厳正と言う意味でもあります。如来様は私どもの信念にお報いくださり、お慕いする心に感応して下さる。これがいい加減なものでない所を如来様のお慈悲と受け取り深く味わいたいものです。 杉田善孝上人ご法話より 2025.1.5
NHKのヒューマニエンス:宇宙体験の回(録画)を見ておりましたら、海から陸へ上がった生物の進化の方向は宇宙へ進出することとやっていました。人類が宇宙へ進出するかどうかは分かりませんが、認識機能が五眼の内の肉眼にとどまっている限りはどんなに遠くへ飛翔しても、どんなに違った環境に適応してもたかが知れています。私たちの進むべき方向が空間の移動ではなく状態の変化であり、内なる霊性を開発し成仏をもってその究極とする。「地球の発展は生命の現化発展を目的とし 生命の発展は意識の現化発展を目的とし 意識の発展は心霊の現化を目的とし 心霊の発展は世界の目的 世界は心霊を実現し宇宙と致一(合一)せしめる事をその終極目的とする。」と言うのですから、宇宙体験どころか宇宙時と合一する方向をこの地球上で座したまま目指すのが弁栄聖者が示された仏教本来の教えです。
「自分は経論その他の著述を拠り所として演繹的に説いておるのではない。(ご自身の三昧体験に基づいて)帰納的に説いておるのだ。」との旨、聖者は念を入れ繰り返し仰せであったと伝わります。すなわち(経典etc.に典拠を求めるのでなく)ご自身が【三身四智の仏眼】で直接認識なさった三昧体験を根拠として釈尊、善導大師、法然上人の真精神そのものを説いておられるのです。成立の古い原始仏典にある釈尊の説法は実はその真精神の核心が明示されたものでなく、当時の人々に対する対機説法すなわち方便の教えだというのです。ですので原始経典から釈尊の三昧体験の中身を引き出そうとすると空転する。聖者はご自身が三昧体験された釈尊の事実に基づいて「釈尊の真精神を説く」としておられるこれが、光明主義の原点である旨、お弟子の笹本戒浄上人様が明言しておられます。参照:光明主義玄談 巻三(光明主義文献刊行会)2024.12.12
中井常次郎という方は、大正八年九月弁栄聖者に初めて会われたとき京都帝大工学部の講師をしておられました。初対面のとき「頭を垂れていた為お顔を拝むことは出来なかったが、襖を開けて部屋に入ってこられた聖者がお裙のすそさばきいとしとやかに我等の前にお座りになったのを見ただけで はや霊感に打たれた。」と述懐しておられます。その後授業の都合をやりくりしながら可能な限り聖者のお別時に参加されました。 聖者のご自坊であった当麻での授戒会(聖者の授戒会はお別時と同じ内容)に参加されたとき、京都へ帰る間際「中井さん 今あなたは当麻で死にます。あすは京都で生まれます。けれども自分には切れ目がありません。浄土に生まれるのもこれと同じです。三昧状態で、醒めて生まれます。」と仰って頂かれたそうです。そしてこの短いお言葉がその後中井先生を通して多くの人の信仰に生気を与え偉大な働きをしていると。分かり易く言えば、今日当麻では姿を消すけども明日は京都に姿を現す。生死はこのようなものだと言う例えです。「三昧に入り心眼をもって見れば肉眼では見えない浄土がみえる。信仰の人は心の眼が開け霊界に入り永生を得る。今より切れ目なしに極楽に生まれる。」(『山崎弁栄大悲のことば』求龍堂選書より)。
生死に切れ目がないと言うお話は伊予松山の大島玄瑞上人からも伺っております。
*聖者を見送られたあと先生は大正十二年に職を辞し 郷里の和歌山へ帰郷し南葵光明会を立ち上げ活動された。著書に弁栄聖者最晩年のご法話の筆記録を中心とした『乳房のひととせ上・下』があり前掲書はこれをもとにして編集された。 2024.10.23
遮情と表徳: 仏教には「遮情」と「表徳」のそれぞれを重視する二大潮流があり、聖道門で遮情に向かうものの代表が天台、表徳に向かうものの代表が真言。浄土門では遮情にむかうのは真空宗である処の真宗、表徳に向かうのは妙有宗である浄土宗となりました。それぞれを事の法門・理の法門と言い日蓮宗はこの事の法門であり、山崎弁栄上人の光明主義もこの流れに連なる事の法門です。弁栄上人は信者たちへのお便りに日蓮上人を蓮師、蓮師と呼んで言及し評価なさいました。
日蓮上人の達見:日蓮上人の心境について、弁栄聖者が三昧直観された内容がお弟子の笹本戒浄師に伝わっております。慧眼・法眼を開く所までは進んでおられなかったので、(人間の)想像ではあるが日蓮上人は「インドに出現された釈尊は本門の本尊が人間の姿をお示しになった文字通りの活き如来様で、久遠の本仏の妙色荘厳は本来迷悟なく生仏の仮名を絶する十界事具の一念三千の妙体だ」と思っておったこれは卓見だと聖者は褒めておられたと。仏教の学問をして人間の理屈と想像で日蓮上人が信じていたものと弁栄聖者が三身四智でしかと三昧認識なさった如来様の真相の一面と合っていたので聖者は日蓮上人をお褒めになったのです。(光明主義玄談 巻三158より) 2024.3.3 |
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